『偽書百選』という書物が有る。
元々は週刊文春に「偽書発掘」という題名で隔週連載されたものであり、執筆者名は「垣芝折多」カキシバオレタとある。
100冊の本を紹介し連載終了後、平成6年3月に、101冊目の書評「偽書百選」を加筆し松山巖氏の解題を付して単行本として文藝春秋から上梓された(全333ページ)。
その後、平成9年10月には『偽書百撰』のタイトルで文春文庫になった(全342ページ)が、このときは著者の垣芝折多の名とともに編者として松山巖氏の名も表紙・カバー・扉・奥付に明記されている。解説は池内紀氏が書いている。ちなみに101冊目の書名も「偽書百撰」となっている。
単行本の98ページ、文庫本では100ページを開いてみる。
そこには、
「第三十一書『錢湯の季節』泥酔光太/明治四十四年」
という書評が掲載されているはずである。
ところが、この「第三十一書『錢湯の季節』」という書評は、週刊文春のバックナンバーを探しても見つけることはできない。
第三十一番の「偽書発掘」が掲載されたのは平成2年5月24日号の週刊文春、156ページである。
単行本としてまとめるにあたってなぜその書評が削除され「第三十一書『錢湯の季節』」に差し替えられたのかはわからないが、以下にその全文を紹介する。
タイトルからもわかるとおりこれはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』のパロディである。
文中に人名として「日罹」という名が出てくるが、これは「日羅」のまちがいだと思われるがそのままにしておいた(誤字ではなく誤植であろう)。
なお、原文中のルビは[ ]でくくった。
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文春図書館 隔週連載
偽書発掘 垣芝折多
第三十一書『蓮の名前』
この本でまず注目したのは、明治の最後の年にあたる明治四十五年に出ていることだ。明治四十五年の七月に明治天皇は没しているが、本書はその二月前の五月に出版されている。著者は諾帯英光。物議社刊行。
「前書」には、「十年前、本書の原典たる日亜師による覚書を駿河にて求めたり」とある。著者によると、原典はおよそ二百年前に漢文によって書かれたものだが、読んでみると、「驚愕すべき事件」が記されていたという。この事件を発表するべきか、否か、迷ったが、ともかくも「言文一致」の文章に直すことにした。今回「勇断を揮ひて公覧」したものだとのべられている。
「第一 発端」からは、日亜という若い僧侶の回想記になっている。「アノ事件は今よりは丁度三十年前の事で厶[ござ]つた。山戸島にて起きた『提逹事件[だいだつじけん]』なる一大騒乱事件が其れで厶。アノ事件について現在語る者は在りませぬ。」と書き出されている。
「私は師日槍が島の山戸寺の日利師よりの招聘に応じて赴いた折、供を命ぜられ、偶然にも事件に遭遇したので厶。山戸島は誠に気候温暖、島民の気質は温厚にして皆熱心なる法華経の信者といふことで厶。日利師が、退屈な島で厶、と語のもあながち嘘ではないと思はれたので厶。今から思へば、此やうな温和な島で凄惨な事件が起きたのは不思議な、夢の如き感じすらいたすので厶。」
手短に事件のあらましを再現してみよう。
著者と彼の師が島に着いた日から、事件は起きた。山戸寺の僧侶たちが、次々に死んでゆく。自殺のようにも、他殺のようにも思えるが、日槍は事件が計画的に企てられていることを見抜く。この回想録は探偵小説のようである。いや、並みの探偵小説より面白い。事件が進むにつれて、この寺のなかに権力抗争があり、その背後には日蓮宗の教義の解釈の違いで生じた各派、各流の動きが控えていることが判ってくる。
富士門流、日朗門流、四条門流、身延派、中山門流、本門寺派、……あるいは、その分派がそれぞれ正統であることを主張してやまない。だから、話には宗論や対論の部分が多い。さらに話が複雑になって来るのは、幕府によって徹底的に弾圧をうけた不受不施派までも登場して、事態は混沌としてくる。
本書の欠点は、日蓮宗に詳しくない者には、教義の違いが判りにくいことと、登場人物の名に「日」の字が付いていることである。日亜、日井、日卯、日得、日尾、日香、日樹、日区、日毛、日戸、日差、日詩、……日名、日荷、日奴、日音、……日罹、日利、日琉、……日輪、もう切りがないないから止めるが、読んでいると、誰が誰やら判らなくなってくる。すぐれた探偵小説は、物語の迷宮とか、迷路の如き構成とかいって形容されるが、この本こそ、迷宮そのものなのだ。
ここで、ひるんでは本書は読めない。先にすすもう。
殺されるのは、日幸、日新、日奥、日成、日内、日宮、日森、日大、日松、日村、日古、そして日管の十二人の僧侶である。これは史実だろうか。いや、これは凄惨きわまりない探偵小説だ。探偵は日槍と日亜。探偵小説を明かしてはつまらない。だから、殺人のトリックは語りたいのはヤマヤマだが、止める。また真犯人が、誰なのかも語らない。ひとつヒントを与えれば、名前の頭に「日」の一字が付く者である。これではヒントにならぬといわれるかもしれない。ホントは教えたいのだが、まあ仕方ない。
ただ、この殺された僧侶たちが、じつは法華経のなかにある「提婆達多品[だいばだったほん]」という一品[ぽん]を、最高の経典と考えている「提達派」であることが判ってくる。「提婆達多品」という教えは、釋迦の教えに背いた極悪人の提婆達多の成仏と、八歳の竜女の成仏が説かれて、悪人成仏と女人成仏とを明らかにしている。末法の世での絶対救済を約束している。この教えによって、日蓮宗は広く信者を獲得したとさえいわれている。
ところが、「提達派」の僧侶たちは、仏の戒律や秩序を壞してこそ、末法の世においては成仏すると考える。彼らは日蓮と同様に自らを「旃陀羅[せんだら]の子」(最下層のさら下層)と称して、日蓮宗全体を覆そうと企てている。この一派と戒律を強く求めた不受不施派との対論が、本書の大きな山場になっている。なかなかの迫力。
事態は二転三転し、富士門流とおもった者が日朗門流、四条門流であった者が不受不施派、身延派が提達派、逆に不受不施派が身延派であったりして、混乱は限りなく、最後は寺が炎上し、池の蓮の花がポッと開くところで終わる。「蓮」は日蓮を、というよりも仏そのものを表しているのだろう。
読み終わると、本書は二百年前の回想録ではなく、まったくのフィクションであり、むしろ当時の状況を、アレゴリー(寓話)として語っていることが理解できる。事件は「今度の事」として山戸島の島民に噂されたとある。山戸とは、ヤマト、即ち日本。今度の事とは、本書が出る二年前、明治四十三年に起きた「大逆事件」を指す。殺された十二人の僧侶は、日幸の「幸」は幸徳、同じように新は新村、管は菅野と事件に連座した人物に合わせてある。
すべてが瓦解して終わるという結末は、明治の終わりを予告していたかに思えた。明治末年にふさわしい力作だった。
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『偽書百選』
『偽書百撰』