FBI(笑)Oh My Buddaha !・直接間接を問わず、関係・関連することがらを含めメモしていく。過去の記事も加筆訂正することがある。


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北原白秋一家と田中智学・小笠原慈聞・浅井甚兵衛

『白秋全集』(岩波書店)に田中智学の名を見つけることができる。
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 39巻、書簡集の323頁、大正13(1924)年1月14日付、東京下谷、鴬谷、国柱会館、田中巴雷先生宛。相州小田原天神山、北原白秋、39歳。

両親とともに三保の最勝閣に招待され、
「朝夕尊顔を仰ぎ」「荘厳なる御式を拝し候上両親の歓喜を子としてのくわんぎといたし得候こと何とも忝く奉存候 なほ/\(註1)御慈愛に甘え幾日となく大勢にて御取こみ中」云云。
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 「巴雷」は田中智学の号である。
 別巻553頁に、8巻歌集3補遺として、
「最勝閣にまうでて詠める長歌ならびに反歌」が収録されている。
 8巻108頁、262頁、9巻218頁にも同題がある。
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 白秋が国柱会に入っていたとか日蓮信仰をもっていたということではあるまい。
 ただ、「両親の歓喜」とあるから、両親は信仰していたと思われる。
 両親が、その後、白秋の次弟鐡太郎によって日蓮正宗に帰依したのは昭和になってからだったと思うが、白秋が田中智学・国柱会と親しくしていたこの時期は、牧口常三郎も国柱会に出入りしていたころでもあるか。
 鐡太郎は、品川妙光寺の信徒になったはづで、有元廣賀住職時代の有力者である。
 また、鐡太郎の経営する出版社アルスは、有元を支持していた小笠原慈聞が主宰する雑誌『世界之日蓮』(後に『世界の日蓮』)に毎号広告を出していた。
 両親については『世界の日蓮』に巻頭モノクログラビアで写真が掲載されたことがある。
 この時期には、顕正会の前身である妙信講初代講頭浅井甚兵衛も妙光寺の信徒であったと思う。
 小笠原慈聞は、大石寺56世大石日應が作った「日蓮正宗日蓮大聖会」の第2代を自認し、鉄太郎も入っていた。(ちなみに、日蓮大聖会の発音は「ニチレンダイセイカイ」ではなく、同会第3代代表であった故・関戸了三によれば「ニチレンタイショウカイ」である)
 ここにも錯綜する縁の糸があった。

註1:「/\」は、原本では「大返し」記号(ひらがなの「く」を縱に伸ばしたかたちの繰り返し記号)
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by siawaseo_anatani | 2008-02-06 03:40 | 資料紹介