顕正会は現在、文部大臣認証の宗教法人で正式名称は「宗教法人顕正会」といいます。
「日蓮正宗顕正会」とか「冨士大石寺顕正会」というのは自称で、顕正会となのる前は「妙信講」という、日蓮正宗妙縁寺(東京吾妻橋)所属の一法華講でした。
妙信講の初代講頭は浅井甚兵衛氏(故人)で、顕正会の現会長浅井昭衞氏の父親です。
甚兵衛氏は大正十五年十二月に品川の日蓮正宗妙光寺信徒になりました。当時の住職は第二代有元廣賀(日仁)師です。
妙光寺の初代住職は冨士本智境(日奘)師で、大石寺の異端派とされている堅樹派完器講の僧でしたが、先輩の佐野広謙尼とともに大石寺に帰伏しました。
甚兵衛氏が入信した当時の有元師は、大石寺土屋日柱法主に対する正宗僧侶のクーデターに積極的に参加し、後には法主選挙にも立候補したり、とても精力的な僧侶であったといえます。
昭和になってからは国策推進運動にも積極的に取り組み「国旗祭」の制定を主張するなど、当時の日蓮正宗にあっては或る意味社会性の或る僧侶でした。
現在の顕正会会長が一見すると右翼チックにみえるのは、多感な少年時代に有元師の言動に接していた影響もあるのかもしれません。
弟分には、これまた或る意味社会性を持っていた僧侶で「神本仏迹論」を主張した小笠原慈聞師がいました。
有元師は昭和十一年に亡くなりましたが、昭和十六年八月、第三代住職秋山日満師(戦後に大石寺法主)の時に、甚兵衛氏は妙光寺所属の妙信講を作り、翌十七年四月に大石寺鈴木日恭法主から妙光寺所属の「東京妙信講」の名称で法華講として認証されました。
秋山住職は妙光寺総代になった甚兵衛氏ら檀信徒の反発にあい昭和十七年八月に住職を辞任しました。