創価学会が「国立戒壇」の建立をその最大の目標とし始めたのは1950(昭和25)年である。
それまでは抽象的表現として「広宣流布」を唱えていたに過ぎず、この時から具体的に「国立による本門戒壇」建立を目指した宗教活動=折伏が活発化し始めたのである。
1950(昭和25)年11月12日、第5回本部総会の席上で戸田城聖は学会トップの座=理事長職を辞任した。
後任には彼のライバルでもあった矢島周平(のちに出家し、日蓮正宗僧侶となった故・矢島秀覚)を推し、戸田自身は、
《第二代の会長、第三代の理事長を推薦、推戴、学会の前途を、あくまでも見守って》
いくとして、自らは第一線での活動から身を引くが如く語った。そして、その直後の発言において、
《広宣流布は、仏意であり、仏勅であります。(中略)しかし、国立の戒壇は、まだ建立せられず、現在にいたっております。それこそ、末代にのこされた仏勅といわなくて、なんでありましょう》
と「国立戒壇」について初めて言及したのである。
これを契機として学会員の間には急速に「王仏冥合」「国立戒壇建立」の思想が浸透して行った。 (つづく)