(承前)
参議院選挙の結果は全国区2名、地方区1名の当選者を見、半数当選を一応の勝利とした。また戸田は機関誌『大白蓮華』8月号から「王仏冥合論」の連載を開始し、6回にわたって政治進出の教学的理論づけを行なった。
その冒頭において戸田は、
《このたびの参議院選挙戦では、大いに社会の注目をひいた。宗教団体であるわが学会人のなかから、政治家をだすのかということについて、内外ともに、いろいろの議論がでている。たとえば、日蓮正宗を国教にするとか、また何十年後には、衆参両院の議席を学会人で占めるとか、または創価学会が日本の政治をとるとかいう、あらゆる妄説が唱えられている現状である》
と述べて、「国教化」「衆参両院の議席獲得」「政権獲得」などの議論を全て「妄説」として否定したが、続けて、
《しかしわれらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである》
と全く矛盾する内容を述べている。
たしかに戸田の存命中は「衆参両院の議席獲得」「政権獲得」は否定され続けたが「国教化」については否定も有名無実であったと言えよう。
これに反し第二期に入ると池田会長のもとに「国教化」は完全否定され、残る二つは公明党の結成によって反古となってしまった。
もっとも戸田が「衆参両院の議席獲得」「政権獲得」を打ち消しても、彼の愛弟子のひとりであった池田大作参謀室長(当時)は12月の第五回男子部総会において、
《身延を代表した内閣(引用者註・石橋湛山内閣を指す)が組織されることは、まさしく戒壇建立の暁にはわが学会員にとり、かつ、わが男子青年部の手によって内閣を結成して、王仏冥合を、大聖人様の御予言を達成すべき瑞相ともいえる》
と述べ、後の政権を目指す政党としての公明党の誕生を予言するかのような発言をしている。
もしくは、この発言を踏まえて公明党の結成および衆議院進出が決定されたと言うべきであろうか。
池田の発言は往々にして大言壮語の観があるが、かつての1954(昭和29)年3月に行なわれた男子青年部第一部隊総会でも、
《今後の闘争は、政界、経済界、教育界への進出にある》
と激をとばし、政界への進出、更には今日の創価学会の広範な活動、つまり総体革命路線を予測させる内容を、その発言中に示唆していた。 (つづく)