(承前)
創価学会が「国立戒壇論」を放棄し政党結成と衆議院進出を決定するまで、確かに彼らの言っていた「国立戒壇」にせよ「王仏冥合」にせよ、それらは間違いなく「政教一致」をその意味内容としていた。
彼らが如何に、「国立戒壇功徳、即ち平和論」と言おうとも、同じ文の中で戸田の「王仏冥合」の次ぎの箇所を引用している限りにおいて、それ以外に解釈の仕方はない。
《 国立戒壇とは、勅宣と御教書(当時は幕府の命令、現在は国会の議決)を申し下して、富士山に戒壇を建てるべきである》
これは特定の宗教団が国会の議決という政治的法的実効力を利用し、教団みずからが掲げる目標を達成しようという事である。
しかし、例え教団選出の者によって国会やその他の機関が占められたとしても、それによって特定の宗教に対し便宜を図る、という考えが憲法の精神と全く相入れるものではなく、かえってそれと反するものであることは言うまでもない事である。
この時期における創価学会の政治関与が、実はその宗教的な本質論からではなく、教勢拡大という方法論から行なわれたという事は既に述べたが、あらためて指摘しておかなければならない。
戸田は、他宗攻撃(邪宗破折)と現世利益(功徳)の二本柱による教勢拡大に限界を感じ、ためにその一つの方法として政治関与、政治進出を日常活動に組み入れたのである。
それはある意味では確かに卓見であった。宗教々団の政治進出は奇異であると同時に、ある種の新鮮さをも一般民衆に印象づけるものであったと言える。
また彼らの政治進出の時期が世に言う「五五年体制」の成立と時を同じくしていたという点は非常に興味深いことである。
これは、戸田自身が古島一雄や岸信介ら政界の実力者たちと非常に親しかったが故に成し得た事であるとも考えられよう。
ちなみに現在までに創価学会と親しかったとされる人達の中には、古島一雄、塚本素山、児玉誉士夫、笹川良一、岸信介、田中角栄、五島慶太、松前重義、佐藤栄作ら、数多くの政財界の実力者や文化人がいる。
いずれにせよ、この段階の創価学会は戸田の思いつきをそのまま直截的に行動化したところに特徴があった。
またその故に、後の池田体制において、教義・路線などの混迷が生じたとも考えられるのである。 (つづく)