(承前)
民主主義という虚構論理を無批判・無条件に受け容れるならば、現在の創価学会の戒壇論の方が一般の拒絶反応は少なくなるだろう。
しかし、それは顕正会が主張するように近代日蓮正宗の教義とは全く異質のものであることも事実ではないのか。
詳しくは別の機会に述べるが言葉の真の意味で正宗に権威があれば、今日のような混乱は起きようはずもなかったのではないか。
正宗教義の根本とされる三大秘法(題目・本尊・戒壇)のひとつである「本門戒壇」の意味・定義を仮に変更するのであれば、宗内で論議を尽くすべきだったが、それは主として創価学会と妙信講(現・顕正会)の間で行なわれ、宗門は成り行きをながめていただけで、しかも、いったんは妙信講に理があるとしたにもかかわらず、宗門は学会側の主張を追認し妙信講を解散処分に付してしまった。
国立戒壇を否定してから言い訳的に論文を発表したところで、それは“大本営発表”である。「戒壇論」という重要教義について宗内で論議し決定することをせずに、信徒団体どうしに対論させ、なおかつ裁定を覆すという無定見の愚挙を犯すことによって、日蓮正宗は自ら権威を喪失してしまったのである。
権威とは振り回すものではなく、周囲がそれと認めるものである。今からはもう後戻りはできないだろうが、教義教学を根本から見つめ直さない限り、日蓮正宗が1個の宗教として社会から認知・評価されることは極めて困難であると思われる。
これまでの日蓮正宗は、「印籠教学」で来てしまった。
それも、印籠の中身は、偽薬であったり、他所から勝手に持ち込んだ書き物ばかり。
「良いとこ取り」のコンビニエンス仏教が「宗教法人日蓮正宗」なのである。
罰論という恐怖信仰は信徒には有効であるかもしれないが、けっして世間一般の人たちを騙せるものではない。
「伝統的」といわれる仏教宗派の中で、これほど露骨なカルト的教団は、他にはないであろう。 (おわり)