FBI(笑)Oh My Buddaha !・直接間接を問わず、関係・関連することがらを含めメモしていく。過去の記事も加筆訂正することがある。


by FBI(笑)Oh My Buddaha !

カテゴリ:創価学会攻防史( 14 )

 牧口と戸田が入信した翌昭和4(1929)年、彼らを折伏した三谷素啓は『立正安国論精釈』を著し世に問うた。

学会の資料によると三谷は

「常在寺に属する『大石講』の幹部」

だったというが、彼についての詳細は現在のところ明らかではない。

しかし、評論家の平野計によると、

「三谷氏の日蓮正宗教学の理解は日蓮正宗の主流派の教義解釈と違って、明治初年に日蓮正宗の中でおこった有力な異端的在家運動である完器講の系統といわれる。」

という。

 前述したように、牧口常三郎と戸田城外を折伏し日蓮正宗に入信させたのは三谷素啓であったが、柳田国男が「故郷七十年」と題する文の中で三谷について触れている箇所がある。(引用に際して改行を施した)

《富士山の麓にいくつか日蓮宗の寺があるが、牧口君はそのうちの本門寺というのに参り出した。

その原因として三谷という一人の面白い人物が介在していた。

どうも正体の判らない変った人物で、盛んに嘘をついた。

ところがいくつかの珍しい妙薬をもっていて、大して大きくない塗り薬とか、煎じ薬とかであったが、それが不思議に良く効いた。

それで私はいつか聞きに行ったことがある。

貴方どうしてそんなにたくさんいろんな薬の秘密を知っているかといったところ、やはり嘘の返辞をした。

 シナの牛荘(ニュウチャン)から何十里とか何百里とか入った所に旧いお寺があって、いろんな珍しい物が伝わっているのみならず、大変な書物をもっていた。

そんないかにも私の喜びそうな話をしてから、三谷はそこにしばらくいて、そこで覚えて来たというのだが、聞いているうちにでたらめが判るような話ばかりであった。

それが本門寺の信徒だったわけである。

 牧口君とは早くから知り合っていた間柄らしく、牧口が私に『一度三谷君に会って御覧なさい、三谷君の所に面白い薬がありますよ』といって紹介してくれたのが最初であった。

私もその薬の恩恵だけは受けているが、その成分は少しも知らせてくれなかった。その男が牧口君を仏教の方へ導いていった。》

 長い引用になったが、本稿は資料の紹介も目的のひとつとしており、これからも各種文献等の引用は最大限に行なうつもりである。

 さて、柳田の文は、他の箇所でも創価教育学を「創価経済学」と記すなど誤りもあるが、三谷の人となりについて書かれた数少ないもののひとつであり、興味深いものがある。

 また、「牧口君はそのうちの本門寺というのに参り出した」とあるが、これは北山本門寺のことである。

 35年ほど前にこの文章を初めて読んだときは柳田の勘違いかと思ったのだが、その後、昭和51年に、北山本門寺の僧侶、故・早川達道師に聞いた話では、牧口は昭和2年ころに何度か北山本門寺を訪れている。

創価教育と日蓮について自説をいろいろと話して、

「本門寺の信徒になりたいといったが、あなたの考えは日蓮聖人の教えとは違う、といって帰ってもらった」

ということであった。

 このとき、牧口が三谷とすでに出会っていたのか、それともまだ国柱会に出入りしていたのかはわからないが、牧口が日蓮正宗に入信する以前に、北山本門寺の信徒になろうとしていたという事実には、非常に興味深いものを感じる。
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by siawaseo_anatani | 2012-09-11 12:42 | 創価学会攻防史

創価学会攻防史の研究08

〔「価値論」〕

後に創価思想と呼び称されるところの考え方は「日蓮正宗の信仰にその論理的帰結を見い出した」と、今日の学会関係者は言うのだが、牧口の教育理論と日蓮正宗との接点を初めて見い出し得るのは、いわゆる『価値論』においてである。

しかし、それも戦後に戸田の手により増補改訂されたものとは内容がかなり異なる。

『価値論』は、昭和6(1931)年に『創価教育学体系第2巻』として世に出たが、戦後、昭和26(1951)年の牧口の8回忌に、戸田が増補改訂して『創価学会版』として再版された。

これは後に、昭和40(1965)年に刊行された『牧口常三郎全集』全5巻(第三文明社)のうち『第1巻、創価教育学体系(上)』に収録された。

その二種とも絶版になり、10数年の間、われわれ外部の者はおろか、学会員でさえも古書店でしか「価値論」を入手することはできなかったのである。

現在では新版『牧口常三郎全集』全10巻(第三文明社)の第5巻所収のものと、聖教文庫版『創価教育学体系II』として出版されているもの、そしてレグルス文庫版の3種類が入手可能である。(ただし、レグルス文庫版以外についてはふたたび在庫かぎりで事実上の品切れが続いている。)

 聖教文庫版はその凡例によると、

《一、本書は「創価教育学体系」全四巻中の第二巻(価値論)の初版(昭和六年三月五日発行)に基づいて多少の校訂を加え、これを収録したものである。》

 となっており、ほぼ牧口の原著に近いものといえる。

定本たるべき旧版の『全集』に収録されたものが、戸田の『増補改訂版』であったというのも奇妙であるが、これについては後に述べる。

 教育理論については独自の説を唱えた牧口が、何故に日蓮正宗という既成の伝統仏教宗派に入信したのか。

このことに関しては現在ほとんど明らかになっていないが、興味深いと思われるのは、当時、牧口らと共に「郷土会」のメンバーだった柳田国男の「牧口君入信の動機」と題する次ぎの一文である。

「牧口君は家庭の不幸な人で、沢山の子供が患ったり死んだりした。

細君も良い人だったが、夫婦で悩んでゐた。

貧苦と病苦と二つが原因となって信仰に入ったのかと思ふ。

以前は決して宗教人ではなかった。」

 牧口と柳田は明治42(1909)年以来親交があったというが、その後、牧口が信仰を深めるにつれ柳田の方から牧口を敬遠するようになっていったという。

(この牧口と柳田の関係については、故・竹中労による『庶民烈伝』を是非とも参照されたい。)
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by siawaseo_anatani | 2012-09-05 19:42 | 創価学会攻防史

創価学会攻防史の研究07

「宗教活動は昭和11年以降」

牧口の『創価教育学体系』は『第1巻』が昭和5(1930)年11月に、『第2巻』が同6年(1931)年3月、『第3巻』同7年7月、そして『第4巻』が同9年6月にそれぞれ刊行されているが、このうち信仰に関連した記述があるのは『第2巻』いわゆる「価値論」の巻である。

『体系第1巻』発行の2日後、昭和5(1930)年11月20日に発行された月刊の機関誌『環境』第1巻9号掲載の「本誌の社会的使命」というスローガンにはまだ、宗教に関する言及は見えない。

のちに昭和11(1936)年2月発行の雑誌『新教』第6巻2号において「生活改善の根底たる教育・宗教の革命を目標と」する旨を記し、初めて宗教活動に関する言及を行なっている。

全文は次ぎのとおりである。


《月刊 新教―教育宗教革命運動

使   命
生活改善の根柢たる教育・宗教革命を目標 とし、之が達成手段としての自由公正の論壇にして、且新進變動の教材提供者。

主   張
政治經濟等、世間的生活の改良は枝葉の剪截である。教育・宗教の改革は根茎の培養である。
吾等青年教育者が國家將來の爲に、教育・宗教の革命を標榜し、蹶起して社會に訴へんとする所以である。
マルキシズムもフアツシズムも、はた自由主義をも超越し、國體に一致せる大乘的「全體主義」に立つて、國家社會の生活の根本的改革に邁進せんとするのが、吾等の理想である。

本誌の陣容
○教育・宗教革命の指導原理たる現代名家の論説
○その革命原案としての創價教育學に基づく實踐證明報文並に批判
○國史及び日本精神の宗教的再認識
インチキ宗教の排撃並に既成宗教の價値批判
宗教オリンピック大會の提唱
○最近變動の重要教材
○創價教育學講座
○其他宗教・教育時評―同思潮紹介―研究の相談―教育者煩悶相談―教員文藝等」》

しかし、この『新教』の前年、昭和10(1935)年刊行の『創価教育学会々則要項』には、まだ宗教については触れられてはいない。

以上の事実から見ても、
「改宗後数年間、1930年代中期までのあいだは、日蓮正宗の教義は牧口の思想のなかで重要な要素となっていない」
というベセルの意見は、ほぼ妥当であると考えられる。
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by siawaseo_anatani | 2012-08-08 18:06 | 創価学会攻防史

創価学会攻防史の研究06

戸田はパトロン

いずれにせよ、戸田がキリスト教に対して心を揺らしているその頃に、まず牧口が日蓮正宗に入信したのであるが、牧口が後に“創価教育”と称する独自の考えを主張し、且つ実際に行なっていたのはそれよりも前のことである。
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当初から牧口の教育思想の実践道場を意図していたかどうかは不明であるが、戸田が学習塾“時習学館”を開いたのは大正13(1923)年のことであり、牧口の教育思想そのものは時習学館の開設以前に既に成っていた。

また、時習学館は前述したとおり戸田が「大正12年ごろ、教師をやめ経済の方へ入ろうとして」始めたものであり、経済活動としての塾経営であった。
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牧口が時習学館に常勤していたことは確かであるが、それは時習学館の経営者としてではなかった。

牧口の正式な雇用関係や身分は不明であるが、戸田から給与をもらって生活していたことは確実であり、表現は悪いかもしれないが、事実上、戸田は牧口のパトロンのような存在だったと考えられないだろうか。d0153496_1265027.jpg


今日、牧口の業績として揚げられる『人生地理学』(1903年)、『教授の統合中心としての郷土科研究』(1912年)などはいづれも牧口の入信以前の著作であり、またD・M・ベセルが指摘するように
『創価教育学体系』は、牧口の「職業教育家としての40年になんなんとする経験にはぐぐまれた哲学と教育学」
の「要約」と見ることが妥当であろう。

確かに『創価教育学体系』は牧口の入信後に出版されているが、その原稿のもととなったメモは、牧口が上京して以来、約20年の間に書きとめられていたものであり、入信したことによって初めて『創価教育学体系』が成ったのではない。
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by siawaseo_anatani | 2012-08-07 01:30 | 創価学会攻防史

創価学会攻防史の研究04

前史1、牧口・戸田の入信 03

話が前後するが、入信にいたる経緯について戸田は次ぎのように語っている。

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「キリスト教を3年やりながらたえずなんとなく安定感がなく、おっかけられているようで事業が安定しない。

そこへ三角関係もあって楽しくなかったので、

『キリスト教の神のあることはオボロにわかるが障子に映るちょうちんのようなものだ。

懐しく尊いものとは思えない。

知識としては、私はわかっているつもりだ。』

といったんだが、1時間以上も田中さんはだまっていただけだったんだなあ。

そこで私はキリスト教をやめた。」

ここに出てくる「田中さん」とは、前述の力行会において戸田の面倒をいろいろと見ていた人物である。

以上の発言であきらかなように、戸田を折伏したのは“師”牧口ではなく、牧口を折伏したと同じく三谷素啓であった。

その意味では牧口と戸田の関係は「師弟」ではなく「同志」ということになる。

また、戸田は日蓮正宗に入信したからキリスト教を辞めたのではなく、キリスト教を辞めてから日蓮正宗に入信したことになる。

こう見てくると戸田の入信は偶然だとも考えられる。

即ち、キリスト教の代替としての信仰が日蓮正宗でなければならなかったという必然性はなく、その時点で、もし他の宗教に接していたならば、戸田はそちらの信仰を採ったかも知れない。
・・・・・・・・・・・・・
【補足】

戸田さんは正宗に入らなくても、創価教育学会でナンバー2だったでしょう。

はっきり言えば、戸田さんは牧口さんのパトロンのような存在だったと考えられます。

実体の無い創価教育学会を組織化したのも戸田さんでしょう。

なにしろ、創価教育学会は時習学館の中にあったわけですから。
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by siawaseo_anatani | 2012-08-01 16:59 | 創価学会攻防史

創価学会攻防史の研究03

第1期、創価教育学会時代
前史1、牧口・戸田の入信 02

戸田の入信が牧口の入信から時期が離れていたという点は興味深い。

学会員たちに一般的に信じられている通説では、牧口が入信直後に戸田を入信させたとされている。

この間の経験について書かれたものは少なくないが、脚本家・橋本忍の手による東宝映画『人間革命』のシナリオを、少々長くなるが引用してみよう。
d0153496_14322014.jpg《牧口 『戸田君、ぼくは日蓮正宗に入信した』
戸田 『え、日蓮正宗?』
牧口 『目白商業の校長に三谷素啓という人があり、ぼくの価値論に対し、かねがね話し合いたいと聞いていたので逢ってみた……まるでそれは真剣勝負だった………だが、わしは負けた!』
戸田 『え?』
牧口 『価値論の根底は、小善から中善、中善から大善へと進む善の生活だ。しかし、なにが大善かというと、この人間社会のためという、ひどく広い獏然としたものになってしまう。そしてそれを理論的にさらにもう一段階進めると、これは哲学を越えたもう宗教の問題だ。日蓮正宗にはなにが大善であり、あらゆるいっさいを変えていくもの……それがなにであるかをハッキリ示している。』
牧口 『とにかく、君も入信しなさい!』
戸田 『そりゃまァ、先生のいわれることですから、その通りにはしますが……しかし……』》

橋本のシナリオは池田大作の小説『人間革命』を原作としたオリジナルであるが、要所に関しては現在創価学会において一般的な通説となっている形のままである。
ここで橋本が語ろうとするものは「師匠の言に従う弟子の姿」であり、学会の「師弟不二」論のひとつと言ってよいであろう。

また、教育評論家だった池田諭(故人)は、その著書のなかで、

「三谷に折伏された牧口が次には戸田を折伏し、入信させたのである。」

と述べているが、やはり一般にはこのような入信説話が信じられている。

しかし事実は、戸田を折伏したのは牧口を折伏したと同様に三谷であった。(補足参照)
戸田の言を引いてみよう。

「私が日蓮正宗に入ったのがその年(引用者註、キリスト教を辞めた昭和3年)の秋で、目白小(ママ・商)学校の校長さんの三谷さんから折伏されてねえ。」

日本共産党系の宗教学者である日隈威徳によれば、

「戸田にキリスト教の信仰の指導をしたのは、『時習学館』の生徒の親で田中達夫という工学博士であった。当時、田中は『修養』という伝導誌を発行しており、内村鑑三の弟子であった」

という。

(『シナリオ人間革命』国会図書館請求記号KH119-75)
・・・・・・・・・・・・・
【補足】

三谷素啓さんが教化親というか兄弟子ですね。

私は信仰的には三谷さんの長男が藤本秀之助、次男が牧口常三郎、三男が戸田城外、と考えています。

牧口さんと戸田さんは信仰的には師弟関係ではありません。

牧口さんと三谷さんは途中で喧嘩別れして「絶交」したようです。

ただし、三谷さんがやっていた直逹講には関わり続けて、三谷さんが亡くなった後に直逹講を乗っ取ろうとしました。

それに対して直逹講の人たちが抵抗して、牧口一派に乗っ取られるよりも解散を選んだのです。

直逹講乗っ取りに失敗してから、創価教育学会は本格的に講活動を開始することになります。
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by siawaseo_anatani | 2012-07-28 14:36 | 創価学会攻防史

創価学会攻防史の研究02

第1期、創価教育学会時代
前史1、牧口・戸田の入信 01

昭和3(1928)年、東京芝の白金尋常小学校長をしていた牧口常三郎が、日蓮正宗に入信した。

彼を折伏したのは当時、研心学園(現、目白学園)の校長をしていた三谷素啓(みたにそけい、本名・六郎、1878〜1932年)という人物であった。

三谷については後に述べるが、彼は、禅宗から日蓮正宗に改宗している。

その時期は大正4・5年とも大正7年6月ともいわれている。

著書に『立正安国論精釈』(昭和4年、弾正社刊)がある。

一説では、牧口の方から三谷をたずね、6月頃に池袋の日蓮正宗寺院常在寺において受戒したというが詳しい入信月日は不明である。

この牧口の入信に続いて、その年の秋に戸田城外(後の城聖)も同じ池袋常在寺で受戒したが、戸田の入信月日についても秋頃であったとされるだけでやはり明らかではない。

牧口については、彼の生家がもともと日蓮正宗の信者であったとか、日蓮宗でも派は違っていたとか2、3の説があるようだがこれについても定かではない。

牧口自身の言によると、

「もとは禅宗の家に生まれ、法華の家に養われた」(『創価教育学会体系梗概』昭和10年刊)

という。

もっとも日蓮正宗に入信する以前に国柱会の田中智学の話などを聞きに行ったりして、日蓮宗自体に関心はあったようである。

また、10年以上も禊会(みそぎかい)でも活動しており、そこでの「修養会」が後の「夏季講習会」に活かされることになったのである。(つづく)
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by siawaseo_anatani | 2010-10-01 15:14 | 創価学会攻防史
 イントロダクション
  1.創価学会は池田学会か?

 この20年ほど、創価学会がマスコミにとりあげられる場合は、それらのほとんどがスキャンダラスな話題であったといって過言ではない。

 もちろん、中には学会造反派や内部告発者らによる批判もあったが、それとても創価学会を批判する形はとりながらも、実質的には、“池田大作をターゲット”にして攻撃したものであった。

「創価学会=池田大作であり、公明党=池田大作である」
という認識、イメージは、いまや当たり前となっている。

 創価学会員にいわせると、
「いや、そんなことはない。池田先生は学会の名誉会長だけれど、学会自体は、秋谷会長や森田理事長らによって合議のうえ運営されている」
ということになる。

しかし、これは
「学会は池田氏によって私物化されているのではないか」
という疑問なり批判に対してなされる単なる反論にすぎない面もあろう。

それは、学会員が他人を折伏する時のことを考えればよくわかる。

 彼らが折伏する際に、「これを読んでみて」と相手に渡すものは、池田氏の“著作”であり『聖教新聞』である。

その聖教新聞も、池田氏が著名人と会談したことや、勲章や名誉市民、名誉教授、名誉博士号を貰ったことを一面に大きく掲載したものがよく使われる。

これはグラフ誌である『グラフSGI』でも同様であり、学会員自らが学会のことよりも池田氏の話題を、話を始めるきっかけにしているのだ。

学会員は無意識のうちに池田氏を“人寄せパンダ”(死語)にしているといえよう。

 ところが、外部の者からしてみれば、それは「池田氏の売名行為」に思え、そのような池田氏を礼讃する学会員にあきれ、うんざりし、かえって池田氏を下すだけだという事に、学会員は気がつかないのである。

 池田氏が名誉博士号や勲章を貰うことに反対するつもりはない。

それによって学会員が自分達の指導者を誇りとする気持ちも理解できるし、大いに結構なことである。

しかし、勲章や名誉博士号が、金品の授受によって行なわれることがあるのも、また、事実なのである。

著名人との会見も、しかり。

 池田氏の場合がそうであるというのではない。

だが、勲章や名誉博士号を貰ったり、著名人たちと文学談義や人生談義を交わすことより、彼らを折伏した方が、よほど実りある行為だという批判も少なくない。
(かつて、失脚したパナマのノリエガ将軍が学会員であると一部のマスコミで報道されたが、池田氏の折伏によるものであるかどうかは不明であり、ここでは池田氏による著名人折伏の例とはしない)


  2.唯神論による世界戦略と創価学会

 また、池田氏の著名人会見ツアーや国連重視路線も、創価学会の教義や日蓮正宗の信仰とは全く関係ないものといってよいであろう。

 それどころか、池田氏の言動は、彼が信仰しているはずの日蓮正宗以外のものに依って為されている、という飛躍した意見もある。

 この件については、ここでこれ以上触れるつもりはないが、池田氏の著名人会見ツアーや国連重視路線の原点は、彼の入信以前、昭和20(1945)年、創価学会第2代会長(当時 理事長)だった戸田城聖(当時 戸田城外)にあると考えられるということだけは記しておこう。

 現在世界情勢は、東西冷戦を過去のものとして、パックス・アメリカーナへと移行しているが、その本質は、いうならば“唯神論による世界戦略”であり、「パックス・ゴッディズム」とでもいうべきものであろう。戦後過程を通じてより明らかとなってきたであろうその真理は、ABCDラインの全世界規模での再現を目指していると考えられる。

 創価学会が、世上よく言われるように、“池田学会”(この語は昭和51年当時、われわれが初めて使ったものであるが)であるならば、池田氏以外の学会員がどの様に考えようとも、創価学会は“唯神論による世界戦略”に、既に完全に組み込まれているといってよいと思われるのだ。

 もちろん、創価学会なり池田氏なりが、最初からそうであったとは決して思わないし、悪いとも思わないが、しかし、徐々に変化・変質して現在にいたったことは間違いないだろうと思われる。

 どのように変化し、変質したかは、創価学会の歴史を再点検することによって、明らかとなってくるであろう。


  3.創価学会史区分の試み

 創価学会の歴史を概観すると、いくつかの転換点と事件を指摘することができる。

すなわち、大きく区分するならば、

戦前の創価教育学会時代を第1期、
戦後の戸田城聖による再建から彼の死までを第2期、
言論問題のあった1970年までを第3期、
政教分離以後、正信覚醒運動の始まりまでが第4期、
それから日蓮正宗と創価学会の対立再燃までを第5期、
そして日蓮正宗による創価学会の破門を経て現在までを第6期、

というふうに捉えてみたい。

これらを更に細分化するならば、第1期は教育研究団体から信仰組織へ方向転換した時点で区切られ、第2期は戸田城聖の会長就任をもって分けることができよう。

第3期は衆議院進出と公明党の結成のあった1964年で区切れ、第4期は共産党との10年協定および池田・宮本題治会談をひとつのエポックとすることができる。

第5期は、北条浩第4代会長の急死によって分けられるが、それ以後池田氏の本格的な復権が始まったと考えられる。

第6期は現在も続いていると考えられるが、池田氏をはじめとする創価学会大幹部の日蓮正宗信徒除名と、日蓮正宗による創価学会の破門で区切ることができるだろう。

これらの時期を、後半をそれぞれ′(ダッシュ)期としたうえで、各期における事件をあげてみよう。

まず1期には、牧口常三郎初代会長の著作『創価教育学体系』が4巻までで刊行中止となり、1′期には牧口、戸田をはじめとする学会幹部の検挙および牧口の獄死がある。

2期は、“折伏大行進”、2′期は地方選および参議院選という“政界進出”があった。

3期には公明政治連盟の結成と国立戒壇論の放棄、さらには公明党の結党と衆院進出がある。3′期には、安保論争を吹き飛ばした観のある“言論問題”と公明党との“政教分離”があった。

4期は、言論問題以後の“柔軟路線”への転換と正本堂の建立、妙信講との教義論争などがあり、4′期では世上を騒がせた日本共産党との“10年協定”“池田・宮本会談”日蓮正宗からの独立路線の発覚と脱会者および正宗僧侶による正信覚醒運動があった。

5期には日連正宗における反学会派僧侶の大量除名と、池田氏の巻き返しがあり、5′期は、北条浩4代会長急死による池田氏の本格的な復権があったものの学会および公明党の実力者幹部らによる相つぐ池田批判が巻き起こっている。

6期は、日蓮正宗との紛争再燃、6′期には公明党の政権与党化と池田氏を「永遠の師」と会則に明記した。

物語には起承転結があるが、それを創価学会の歴史にあてはめるとするならば、現在はどういうことになるだろうか。

約20年前に、われわれは次のように記した。

「終焉か更なる飛躍か、文字通り決定的な転換期をむかえていることは確かなようである。
いや、それは池田氏や創価学会だけでなく日本それ自体についても言えることかもしれないのだ。」

当時はまだ、創価学会破門前、バブル経済も破綻してはいなかった。

しかし、まもなくして創価学会も、そして日本も「文字通り決定的な転換期をむかえ」ることとなった。

とりあえず、われわれは、創価学会の歴史を辿ってみることから、作業を始めよう。
・・・・・・・・・・・・・
【補足】
学会史を区分するのにもっとも分かり易いのは、牧口時代・戸田時代・池田時代の3つに分けることではある。

本稿でいえば第3期以降は池田時代ということになる。

しかし、この池田時代は既に半世紀近くにも及ぶ長期にわたっている。

当然のことながら、この間に創価学会自体は大きく変貌をとげた。

これは変貌、変化、変質などさまざまな形容で語ることができるが、近い将来に訪れる「ポスト池田」時代には、また新たな創価学会が出現してくるであろう。

来年、2010年は創価学会・公明党による「言論出版妨害事件」のいちおうの終息から丸40年になる。

この「批判拒否体質」「無謬神話」はいまもって是正されているとは思えない。

では、この創価学会の体質のよってきたるところは何処にあるのか、それを考え検証することで今後の彼らの方向も見えてくるのではないかと思うのだ。
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by siawaseo_anatani | 2009-07-06 15:37 | 創価学会攻防史
創価学会攻防史の研究06未掲載分06
「前書き」ならぬ「前聞き」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(承前)

○そうしますと、池田大作氏は創価学会インタナショナルの会長でもありますから、国内外の組織の最高責任者ということになりますね。

●ところが簡単にそうであるということもできないのです。
 
会則においては、宗教法人創価学会の一部門として「創価学会インタナショナル」いわゆるSGIが「設置」されているのです。
 
ところが、イメージとしてはSGIの下に日本をはじめとする各国の創価学会組織が並んでいるように思わせています。
 
SGIは、宗教法人創価学会の内部組織ですから、どのような「規約」を作ろうが法人格はなく、いうならば任意団体のようなものでしかありません。

「SGI会長」という役職は、じつは創価学会の局長クラスの役職に相当することになります。

 宗教法人法に基づく「宗教法人創価学会規則」では代表役員は理事長ですが、これは法律上のことで、「創価学会会則」によれば創価学会会長が創価学会を「統理する」ことになっています。
 
SGI会長の権限というものについては、「規則」にも「会則」にも、なにひとつ定められていませんし、宗教法人創価学会の責任役員でもありませんから、宗教法人法上の責任を負う法的根拠もありません。

 つまり、池田氏は内部的に最高権力者ではあるけれども、法的には最高責任者ではない、ということになります。

 もっとも、創価学会員にいわせれば、池田氏は「会員の代表であっても権力者ではない」ということになるのですが(苦笑)。  (つづく)
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by siawaseo_anatani | 2008-10-06 01:08 | 創価学会攻防史
創価学会攻防史の研究05未掲載分05
「前書き」ならぬ「前聞き」
(承前)

○いま「戸田学会」「池田学会」という言い方をされましたが、それについて聞かせてください。
●戦前の創価教育学会時代は牧口常三郎初代会長、戦後は戸田城聖の性格を、そのときどきにおいてそのままダイレクトに反映した行動原理を有していました。
 それは創価学会の第三代会長に池田大作氏がなってからも同様でした。
 池田氏が会長を辞任し名誉会長となり、第四代会長に北条浩氏(故人)が就任したとき、日蓮正宗の僧侶やマスコミ、そして一般のひとびとも創価学会から「池田色が消える」と思ったようですが、わたしたちはそういった観測を一笑に付して、「池田学会はそのまま不変である」と主張していました。
信仰的には牧口氏と戸田氏は事実上「同志」、せいぜいのところ入信時期の半年の差で「兄弟弟子」でしかありませんでした。
 しかし教育者としては二人のあいだには師弟関係が成立しており、それがそのまま信仰の世界に横滑りしたために創価学会では「師弟」の関係が絶対的なものとなってしまったのです。
戦後、戸田氏が第二代会長になった際、牧口門下生つまり戦前からの会員のなかには、戸田氏を第二代会長に推戴しようという署名簿に記名しなかった者も少なくありませんでした。
 かれらの多くは学会から離れ、日蓮正宗の寺院の信徒となり後に法華講に属していったのです。
牧口門下生にとって師は牧口常三郎ひとりであり、戸田氏は牧口氏の片腕とはいえ、彼らと同じ牧口氏の弟子でしかなかったのです。
 つまり先輩がいきなり師になるという事態に牧口門下生たちは戸惑いと反発を覚えたことでしょう。
 そして創価学会に残った牧口門下生は、戸田会長実現の実行部隊となった青年部の台頭によって次第に影響力もなくしていくことになりました。

 亡くなった北条浩第四代会長は、信仰暦では池田氏よりも古く、戦前の牧口時代の入会でした。
 北条氏は日蓮正宗の伝統的信徒組織である法華講から創価学会に移籍し、池田氏の先輩といっていいわけですが、年齢的に池田氏よりわづかに若く、戸田時代には池田氏の後輩的な位置にありました。
 年齢的には若いけれども、法華講から創価教育学会そして戦後の戸田時代を経験した北条氏が、池田氏を先輩そして師匠としてたてた事実はかなりの影響を学会員に与えたと思われます。
つまり、いったん結んだ師弟関係はたとえ師が現役を退いたとしても不変不動のものであるという組織原理は生きており、いくら会長が変わろうとも、池田氏の生きているかぎり創価学会の師は池田氏ただひとりということです。
それはまさにユダヤ教やキリスト教における「契約」にも匹敵する性質のものなのです。
 じじつ、創価学会は先年の変更した会則の「前文」で、
「 (牧口・戸田・池田という)「三代会長」に貫かれる師弟不二の精神と広宣流布実現への死身弘法の実践こそ「学会精神」であり、永遠の規範である。」
と成文化しました。
 現在の創価学会では、北条浩第四代会長も秋谷栄之助第五代会長も相対化され「師」ではないということです。
 現在では牧口門下生も戸田門下生もほとんど残ってはいませんから、実質的に「師」となるのは池田氏だけ、池田氏こそが「永遠の師」ということになります。
 ここにおいて、池田氏が存命の段階で創価学会の実質的「指導者」、「永遠の」「師」(外部からは実質的支配者と見えますが)であることが確定し、会則という公式文書に明記されたということは、創価学会内部において池田氏は、日蓮聖人と並ぶ存在になったといえるわけです。

 もちろん次期カリスマが登場すれば、その人物が新たに「師」となるとは思います。
 第六代会長になった原田稔氏が「師」になれるかどうかは疑問です。
 SGIについては、現状では池田香峯子さんが次期会長となり、長男の博正氏へバトンタッチという図式を考えているのではないかと思われますが、すんなりと事が運ぶかどうか、これも疑問だと思います。
いうまでもないことですが、創価学会は数百年の歴史を持つような伝統仏教教団ではありません。
 その権威の拠り所を日蓮正宗に求めたところで所詮それは借り物に過ぎず、独立した一個の組織としては歴史の短いものであり、組織を維持するための求心力は組織の最高指導者の存在に向けるしかないわけですから、創価学会という組織自体が常に「師」を必要としているということになります。
 現在の創価学会、つまり「池田学会」の「師弟論」は戸田時代よりも強固なものとなっており、それが本尊や血脈の問題さえも等閑視させているといっていいでしょう。(つづく)
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by siawaseo_anatani | 2008-09-23 22:48 | 創価学会攻防史