FBI(笑)Oh My Buddaha !・直接間接を問わず、関係・関連することがらを含めメモしていく。過去の記事も加筆訂正することがある。


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最初の大ベストセラー

創価学会について外部の者が書いた本で、大ベストセラーになったのが、元NHKディレクターだった高瀬広居氏(1925−)が書いた『第三文明の宗教 創価学会のめざすもの』弘文堂フロンティアブックス(1962/12/20)、定価は280円だった。
新書判で309ページあり、巻頭にはモノクロのグラビアもある。
それまで週刊誌の記事ていどでしかわからなかった学会について、初めて密着取材をしたルポルタージュである。
企画当初は、佐木秋夫、小口偉一との共著の予定だったが、途中から高瀬氏が一人で書きたいと申し出たという。
第22版は1963/01/15の発行と奥付にあり、約一ヶ月で22回の増刷というだけでも凄いが、年末から年始にかけての印刷・製本・取次など各社の休みを考えると実際の出版は前年だったと思われる。
どのくらいのベストセラーだったのか当時のデータが手元にないのでわからないが、全国の図書館には必ず複数冊が蔵されていた。
学校図書館の場合、私の通った中学と高校にはそれぞれ十数冊が書架に並んでいた。
学会による組織的なお買い上げということではなく、末端の会員が折伏用に大量に購入して友人や知人に読ませていたのである。
昭和40年代後半くらいまでは、町の古本屋の最低金額の均一本のコーナーでよく見かけたが、たいてい10円から50円で売られていた。
当時の学会を知るためにはいい。
一応「必読」もしくは「資料価値あり」。

目次
 1、現代の奇蹟
 2、若き指導者の出現
 3、眼に眼を
 4、折伏人間革命
 5、日本の潮は変わる
 巻末P.P1-4略年表
   P5現勢一覧
   P6役職系列図
   P7学会行事一覧
   P.P8-9青年部出身理事
   P10組織図
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国会図書館請求記号 169.1-Ta384d
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『第三文明の宗教』のアンチテーゼ的に書かれたのが、焚書された植村左内『これが創価学会だ 元学会幹部43人の告白』しなの出版(1967/10/10)である。
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by siawaseo_anatani | 2008-01-31 14:07 | 出版物(中立)
篠田真由美さんの本から

「どんな宗教も、最初はラジカルじゃないですか。でも宗教思想を貫徹していくと革命になってしまうので、結局は政治と妥協する」『唯一の神の御名』祥伝社文庫、P402、篠田真由美氏の発言。

「自分たちに都合の悪いことは隠蔽して、都合のいいことを広めるのが宗教です」『唯一の神の御名』祥伝社文庫、P402、柴田よしき氏の発言。

「ただ宗教を批判するのは簡単だけど、宗教を否定してそこから抜けた人を如何に救うか」同上。
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by siawaseo_anatani | 2008-01-31 02:06 | 引用・抜粋メモ

国立戒壇をめぐって

戦前、牧口・戸田両氏の入信段階で、正宗内で国立戒壇を否定していた僧侶は佐藤慈豊たった一人しかいなかった。
三谷素啓と藤本秀之助は佐藤慈豊の教えを受けており当然国立戒壇否定だった。
いっぽう牧口は正宗に入る前は田中智学の国柱会に入っていたのであるから当然国立戒壇論者であったと考えられるであろう。
三谷と牧口は戒壇論や僧侶論などでぶつかり袂を分かつことになる。
三谷はそのまま佐藤慈豊師につき、牧口は堀米泰栄氏につくこととなった。
三谷が亡くなった後、牧口・戸田らは直逹講の実権を握ろうとしたが、講員たちはそれに抵抗し直逹講を解散したのである。
直逹講の講員たちによって自然発生的に目白グループができた。
堀米氏は目白グループにも近かったため創価教育学会は歓喜寮を離檀し理境房へと移ったのだ。
牧口らは理境房で能勢師の紹介で堀日亨と知り合い国家諫暁国立戒壇建立へとさらに傾斜していくことになる。
目白グループにいた浅井甚兵衛は、目白グループが藤本秀之助を中心とした弾正講になる前に目白グループから離れ、妙光寺でも浮いた存在になっていく。
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by siawaseo_anatani | 2008-01-29 19:05 | 創価教育学会
顕正会の前身である妙信講の初代講頭だった浅井甚兵衛は戦前は三谷素啓の流れを汲む目白グループにおり、品川妙光寺に所属する信徒だった。
その当時の妙光寺住職は有元日仁(廣賀)師である。
妙光寺は初代が冨士本智境住職で、冨士本師の姉弟子は妙寿日成佐野広謙尼。
その妙寿尼の弟子が堀日亨(慈琳)師である。
佐野広謙尼と冨士本師は元々完器講の在家僧、三谷素啓も元は完器講。
三谷が亡くなった後、牧口・戸田は妙寿尼の弟子堀日亨に親近していく。
つまり牧口・戸田と浅井甚兵衛は完器講つながりの従兄弟弟子といえる。
また、浅井氏らが妙光寺を出てから最終的に落ち着いた妙縁寺の住職は、偶然にも有元師と同じ日仁の号をもつ松本諦雄師だった。
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by siawaseo_anatani | 2008-01-29 18:44 | 創価教育学会
牧口常三郎に三谷素啓を紹介したのは学習教材のセールスマンであるとか、業界紙の記者であるという説があるが、事実はどうか。
経済誌の取材で牧口の考え方や手法について取材した記者が三谷に紹介したのだ。
こう述べればわかる人にはわかるだろう。
藤本秀之助である。
この事実は、これまで活字でもネットでも指摘されていない。
藤本秀之助は取材で牧口に会う前に三谷の講に入っていた。
三谷の講といっても常在寺ではない。
東京の信徒有志を集めて三谷が作った直逹講である。
牧口が入信したのは昭和3年春、その年の秋に戸田城外も三谷に折伏され日蓮正宗に入信した。
つまり三谷を教化親とすれば、藤本は牧口・戸田の兄弟子に当たるわけである。
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by siawaseo_anatani | 2008-01-29 14:09 | 創価教育学会