FBI(笑)Oh My Buddaha !・直接間接を問わず、関係・関連することがらを含めメモしていく。過去の記事も加筆訂正することがある。


by FBI(笑)Oh My Buddaha !

<   2008年 02月 ( 4 )   > この月の画像一覧

『白秋全集』(岩波書店)に田中智学の名を見つけることができる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 39巻、書簡集の323頁、大正13(1924)年1月14日付、東京下谷、鴬谷、国柱会館、田中巴雷先生宛。相州小田原天神山、北原白秋、39歳。

両親とともに三保の最勝閣に招待され、
「朝夕尊顔を仰ぎ」「荘厳なる御式を拝し候上両親の歓喜を子としてのくわんぎといたし得候こと何とも忝く奉存候 なほ/\(註1)御慈愛に甘え幾日となく大勢にて御取こみ中」云云。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「巴雷」は田中智学の号である。
 別巻553頁に、8巻歌集3補遺として、
「最勝閣にまうでて詠める長歌ならびに反歌」が収録されている。
 8巻108頁、262頁、9巻218頁にも同題がある。
d0153496_3352196.jpg

 白秋が国柱会に入っていたとか日蓮信仰をもっていたということではあるまい。
 ただ、「両親の歓喜」とあるから、両親は信仰していたと思われる。
 両親が、その後、白秋の次弟鐡太郎によって日蓮正宗に帰依したのは昭和になってからだったと思うが、白秋が田中智学・国柱会と親しくしていたこの時期は、牧口常三郎も国柱会に出入りしていたころでもあるか。
 鐡太郎は、品川妙光寺の信徒になったはづで、有元廣賀住職時代の有力者である。
 また、鐡太郎の経営する出版社アルスは、有元を支持していた小笠原慈聞が主宰する雑誌『世界之日蓮』(後に『世界の日蓮』)に毎号広告を出していた。
 両親については『世界の日蓮』に巻頭モノクログラビアで写真が掲載されたことがある。
 この時期には、顕正会の前身である妙信講初代講頭浅井甚兵衛も妙光寺の信徒であったと思う。
 小笠原慈聞は、大石寺56世大石日應が作った「日蓮正宗日蓮大聖会」の第2代を自認し、鉄太郎も入っていた。(ちなみに、日蓮大聖会の発音は「ニチレンダイセイカイ」ではなく、同会第3代代表であった故・関戸了三によれば「ニチレンタイショウカイ」である)
 ここにも錯綜する縁の糸があった。

註1:「/\」は、原本では「大返し」記号(ひらがなの「く」を縱に伸ばしたかたちの繰り返し記号)
[PR]
by siawaseo_anatani | 2008-02-06 03:40 | 資料紹介

堀日亨関係資料01

 紹介する文書は堀日亨が北山本門寺貫首の逝去に際して綴った追悼文である。
『日蓮宗宗学全書』や『富士宗学全集』編纂のための資料蒐集に関するエピソードも興味深い。
 堀日亨は他の富士系を含む他宗関係者とそれほど険悪な関係はではなかったようである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本門寺井上日光上人の御遷化を聞きて
     大石寺 老沙弥 堀 日亨

聖祖教団の合変已来未だ二周年ならざるに、新大日蓮宗の将星頻りに隕つ単に新陳代謝と看過して慶すべきにあらさるが、宗務総監塩出孝潤、久遠寺監督柴田顗秀、立正大学長守屋貫教、同前大学長清水龍山、同学部長浅井要麟、要山貫首竹部日正の各上人逹、現当巨大の化縁を棄てて鬼籍に入らる何ぞ其れ急なるや、但し、愚生には縁の厚薄あれとも共に甚しく衷心を悼むる程にはあらず、然るに最近帰寂せられたる新大本山本門寺の初菫井上日光上人に至つては、仮令教報者の飛檄無くとも自ら一筆無かるべからざるの境に在り回顧すれば明治卅五年に愚生が吾大石寺関係の古宗学古文献の蒐集に志してより次第に其範囲を拡め遂には他教団にまで及び、厚顔にも有縁無縁を簡ばず各所に採訪するに至り、明治四十四年六月一日始めて関口台の本門宗々務院を訪ひて各末寺の明細誌の閲覧を乞ふ是に依て有用時の料にせんが為なり時の後住職が即ち日光上人の井上正山師にて宗務院の総務たりしなり、此時蓮華寺の本堂墓地等は漸く沼袋に移して残れる厨裏に御取込の折に拘はらずまた石山分離独立已来の悪関係に拘らず且愚生が否交際不愛想なるを問はず、直に引見して明細誌は多分沼袋に移したれば取寄すべし当方にても所用あればと快諾せられたり、此事後年立子山の晩景に唐突に竹部上人に推参して厚遇せられし時の悦に等としく操觚者の快心印象最も深きものあり、此に依て翌四十五年三月九日に相馬文覚子と共に再び関口台を訪ひ二日を費して粗所用を果せり、爾後立正大学稲田海素、祖山学院島智良両師と共に老僧編纂の企てに依つて、大正二年九月四日に初めて沼袋の新宗務院を訪うて本門寺什宝拝見並に撮影を稲田師と共に為すべく交渉を乞ふ、時に猶上人は院の総務たりしを以て山務者に交渉の労を取り猶添書を出さる、此に依て九月十三日の霊宝虫払に事故無く前後三日に亘りて所用を弁したるに静岡に在りし富谷日震師も同事なりしなり。
是より以後日蓮各教団に統合問題起り何れの当局も繁劇にりし時、愚生は敢て時勢を白眼視たるにあらざれども斯業に専念して数々上洛し旁た山陰南海に飛び多く東都に在らず、大正四年の初め統合問題の為に本門宗々会が沼袋に開かれ各山貫首始め要人達集合の由を聞いて個別の訪問よりも一挙に大概を弁ぜんと欲して、一月廿一日御院の忙劇迷惑をも顧みず再び沼袋を訪ふ猶上人は総務たり此職長時に亘り本門法華の森智孝上人の同宗総監としてと共に万年総監と称せられし所由無きにあらず、故に此厚顔の閨入にも上人朗かに斡旋の労を取り強いて寸暇を作りて各山上人等に面謁し更に北西遠豆房要の各山に採訪するの便を与へられたる是等愚生の最も欣幸とする所なり。
是より已後北山は梁セン(注1)二老師を過ぎて上人輿望を負ふて晋山せらる、愚生も亦疾くに故山の客となり蒐集編纂に専注するを以て新古文献の入用は次第に広く且其撮影すら要するを以て、地利に伴うて更に十幾回かの御邪魔を為すに至れり、或時の如きは法会中の蒐写撮影は厳儀を濫すとの物議の為に拒絶せらるゝ事ありしも別箇の御扱にて周弁を欠かしめ給はざりし事等、此等の回数多々なれば煩しく此が細記を避く。思ふに重石二山は六百年来一日も和平の事無き間に処して門下の不平あらんを宥めて能く愚望を容れられし事全く上人の虚心擔懐の賜なりと深く徳とする所なり。
昭和十七年八月の十日に雪山荘を訪はれしは畑毛温泉に療養中急迎にて帰山する為なり霊泉の効顕著なれば又来るべしと去られし、急坂の上下に格別の御難儀も無かりし様なれば必ず御再遊あるべしと久しく心待しに、御便りは意外にも御訃報と早川師の別状なり、然れども御持病は兎も角撃退せられ御本山にて新年の諸式も目出たく了せられて後僅か数日の変調にて十九日に薪尽火滅の御圓寂との事惜しみても余りあり、然も御齢は愚生よりも七八年の弱きにあらずや極考沙弥は其時故山にありて繁忙の日課に追はれ廿三日に荘坂帰臥せり。両山の間僅に半里足らずの擔途なり、嗚呼肖膽も呉越なりとは此謂ひか悔みても追付かず、是畢竟元来筆舌共に不精緩怠の罪、半年を徒にして安否も訪はざりし事今更詮無し。
(二月七日御開山会の当日伊豆の國畑毛の雪山荘にて筆す)

(注1・セン=忄+全)
[PR]
by siawaseo_anatani | 2008-02-04 00:54 | 資料紹介
d0153496_19132998.jpg『偽書百選』という書物が有る。
 元々は週刊文春に「偽書発掘」という題名で隔週連載されたものであり、執筆者名は「垣芝折多」カキシバオレタとある。
 100冊の本を紹介し連載終了後、平成6年3月に、101冊目の書評「偽書百選」を加筆し松山巖氏の解題を付して単行本として文藝春秋から上梓された(全333ページ)。
 その後、平成9年10月には『偽書百撰』のタイトルで文春文庫になった(全342ページ)が、このときは著者の垣芝折多の名とともに編者として松山巖氏の名も表紙・カバー・扉・奥付に明記されている。解説は池内紀氏が書いている。ちなみに101冊目の書名も「偽書百撰」となっている。d0153496_19143738.jpg
 単行本の98ページ、文庫本では100ページを開いてみる。
 そこには、
「第三十一書『錢湯の季節』泥酔光太/明治四十四年」
という書評が掲載されているはずである。
 ところが、この「第三十一書『錢湯の季節』」という書評は、週刊文春のバックナンバーを探しても見つけることはできない。
 第三十一番の「偽書発掘」が掲載されたのは平成2年5月24日号の週刊文春、156ページである。
 単行本としてまとめるにあたってなぜその書評が削除され「第三十一書『錢湯の季節』」に差し替えられたのかはわからないが、以下にその全文を紹介する。
 タイトルからもわかるとおりこれはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』のパロディである。
 文中に人名として「日罹」という名が出てくるが、これは「日羅」のまちがいだと思われるがそのままにしておいた(誤字ではなく誤植であろう)。
 なお、原文中のルビは[ ]でくくった。

*********************************
文春図書館 隔週連載
偽書発掘  垣芝折多
第三十一書『蓮の名前』
 この本でまず注目したのは、明治の最後の年にあたる明治四十五年に出ていることだ。明治四十五年の七月に明治天皇は没しているが、本書はその二月前の五月に出版されている。著者は諾帯英光。物議社刊行。
「前書」には、「十年前、本書の原典たる日亜師による覚書を駿河にて求めたり」とある。著者によると、原典はおよそ二百年前に漢文によって書かれたものだが、読んでみると、「驚愕すべき事件」が記されていたという。この事件を発表するべきか、否か、迷ったが、ともかくも「言文一致」の文章に直すことにした。今回「勇断を揮ひて公覧」したものだとのべられている。
「第一 発端」からは、日亜という若い僧侶の回想記になっている。「アノ事件は今よりは丁度三十年前の事で厶[ござ]つた。山戸島にて起きた『提逹事件[だいだつじけん]』なる一大騒乱事件が其れで厶。アノ事件について現在語る者は在りませぬ。」と書き出されている。
「私は師日槍が島の山戸寺の日利師よりの招聘に応じて赴いた折、供を命ぜられ、偶然にも事件に遭遇したので厶。山戸島は誠に気候温暖、島民の気質は温厚にして皆熱心なる法華経の信者といふことで厶。日利師が、退屈な島で厶、と語のもあながち嘘ではないと思はれたので厶。今から思へば、此やうな温和な島で凄惨な事件が起きたのは不思議な、夢の如き感じすらいたすので厶。」
 手短に事件のあらましを再現してみよう。
 著者と彼の師が島に着いた日から、事件は起きた。山戸寺の僧侶たちが、次々に死んでゆく。自殺のようにも、他殺のようにも思えるが、日槍は事件が計画的に企てられていることを見抜く。この回想録は探偵小説のようである。いや、並みの探偵小説より面白い。事件が進むにつれて、この寺のなかに権力抗争があり、その背後には日蓮宗の教義の解釈の違いで生じた各派、各流の動きが控えていることが判ってくる。
 富士門流、日朗門流、四条門流、身延派、中山門流、本門寺派、……あるいは、その分派がそれぞれ正統であることを主張してやまない。だから、話には宗論や対論の部分が多い。さらに話が複雑になって来るのは、幕府によって徹底的に弾圧をうけた不受不施派までも登場して、事態は混沌としてくる。
 本書の欠点は、日蓮宗に詳しくない者には、教義の違いが判りにくいことと、登場人物の名に「日」の字が付いていることである。日亜、日井、日卯、日得、日尾、日香、日樹、日区、日毛、日戸、日差、日詩、……日名、日荷、日奴、日音、……日罹、日利、日琉、……日輪、もう切りがないないから止めるが、読んでいると、誰が誰やら判らなくなってくる。すぐれた探偵小説は、物語の迷宮とか、迷路の如き構成とかいって形容されるが、この本こそ、迷宮そのものなのだ。
 ここで、ひるんでは本書は読めない。先にすすもう。
 殺されるのは、日幸、日新、日奥、日成、日内、日宮、日森、日大、日松、日村、日古、そして日管の十二人の僧侶である。これは史実だろうか。いや、これは凄惨きわまりない探偵小説だ。探偵は日槍と日亜。探偵小説を明かしてはつまらない。だから、殺人のトリックは語りたいのはヤマヤマだが、止める。また真犯人が、誰なのかも語らない。ひとつヒントを与えれば、名前の頭に「日」の一字が付く者である。これではヒントにならぬといわれるかもしれない。ホントは教えたいのだが、まあ仕方ない。
 ただ、この殺された僧侶たちが、じつは法華経のなかにある「提婆達多品[だいばだったほん]」という一品[ぽん]を、最高の経典と考えている「提達派」であることが判ってくる。「提婆達多品」という教えは、釋迦の教えに背いた極悪人の提婆達多の成仏と、八歳の竜女の成仏が説かれて、悪人成仏と女人成仏とを明らかにしている。末法の世での絶対救済を約束している。この教えによって、日蓮宗は広く信者を獲得したとさえいわれている。
 ところが、「提達派」の僧侶たちは、仏の戒律や秩序を壞してこそ、末法の世においては成仏すると考える。彼らは日蓮と同様に自らを「旃陀羅[せんだら]の子」(最下層のさら下層)と称して、日蓮宗全体を覆そうと企てている。この一派と戒律を強く求めた不受不施派との対論が、本書の大きな山場になっている。なかなかの迫力。
 事態は二転三転し、富士門流とおもった者が日朗門流、四条門流であった者が不受不施派、身延派が提達派、逆に不受不施派が身延派であったりして、混乱は限りなく、最後は寺が炎上し、池の蓮の花がポッと開くところで終わる。「蓮」は日蓮を、というよりも仏そのものを表しているのだろう。
 読み終わると、本書は二百年前の回想録ではなく、まったくのフィクションであり、むしろ当時の状況を、アレゴリー(寓話)として語っていることが理解できる。事件は「今度の事」として山戸島の島民に噂されたとある。山戸とは、ヤマト、即ち日本。今度の事とは、本書が出る二年前、明治四十三年に起きた「大逆事件」を指す。殺された十二人の僧侶は、日幸の「幸」は幸徳、同じように新は新村、管は菅野と事件に連座した人物に合わせてある。
 すべてが瓦解して終わるという結末は、明治の終わりを予告していたかに思えた。明治末年にふさわしい力作だった。
*********************************
『偽書百選』
『偽書百撰』
[PR]
by siawaseo_anatani | 2008-02-02 19:25 | 引用・抜粋メモ
d0153496_4543712.jpg植村左内の『これが創価学会だ 元学会幹部43人の告白』しなの出版(1967/10/10)286ページ、は、新宗連(新宗教団体連合会)の機関紙「新宗教新聞」の連載記事をまとめたもので、高瀬広居の『第三文明の宗教』を意識したものとなっている。
内容は学会員の日常活動を日記風にまとめたものや、現役会員と脱会者の座談会、日蓮正宗教学への批判などで、本書で初めて日蓮正宗歴代の本尊に「山の神」などが勧請されたケースのあることなどが報告されたことは記憶されていい。
d0153496_519760.jpgもっとも刊行以前の段階で情報を得た創価学会側は、竜年光(当時都議)、辻武寿(当時参議院議員、公明党委員長)らが自民党関係者に相談したり、池田大作と竹入義勝の連名で出版禁止仮処分を東京地裁に求めるなどした。(参考:『「これが創価学会だ」の刊行について』株式会社しなの出版(1967/10/13)全32ページ)
仮処分を却下された学会側は名誉棄損で民事訴訟をおこすとともに、当時新宗連理事長でもあった庭野日敬立正佼成会会長を警視庁に刑事告訴し、庭野は事情聴取された。
学会の一連の動きに対して庭野は佼成会で初版十数万部をほぼ全冊購入し、新宗連加盟各教団や伝統仏教教団に配布した。
これに困った学会側は古田重二良日大会頭に相談し、これを受けて古田が庭野との仲裁に入った。
結果、『これが創価学会だ』は十万冊以上が回収され日大グランドでに焚書されたのである。
休戦の条件は立正佼成会に対する批判の停止と学会の新宗連加入だった。
学会側で動いたのは、北條浩とA氏で、戸田の「新宗連加入」の遺志を実現しようとした動きであった。
各方面に根回しをしたのは北條で、某筋の諒解を苦労して取り付けた上で古田と接触したのである。
ところがそれに難色を示したのが新宗連系国会議員たちだった。
新宗連系国会議員らは、すぐさま庭野佼成会会長に直談判し、さらに新宗連加盟各教団や日蓮宗にも話を持ち込み、庭野に圧力をかけ、結果、学会の新宗連加入は棚上げされることとなった。
「資料価値あり」

これが創価学会だ-元学会幹部43人の告白(しなの出版)
国会図書館請求記号 169.1-U338k
[PR]
by siawaseo_anatani | 2008-02-01 05:00 | 出版物(批判)