FBI(笑)Oh My Buddaha !・直接間接を問わず、関係・関連することがらを含めメモしていく。過去の記事も加筆訂正することがある。


by FBI(笑)Oh My Buddaha !

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  日 柱 上 人

d0153496_14342116.jpg 慈観というお名前で長年に亘り日正上人の下で学頭として御在山遊ばされたが御言葉から日常の御起居までまことに物柔かで、峻厳な日正上人と対照的に拝せられた。その頃から度々蓮蔵坊に参上して法義について伺つたり御筆記ものを拝借したりした。国清と寿美子は上人から賜わつた名である。法友十数人と共に上人を屈請し親しく御話を承わつたのは改築前の大久保の家であつたから大正十四年頃のことであろう。「蓮心」と大書した扁額を賜わつたが惜しくも戦災で焼失してしまつた。
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by siawaseo_anatani | 2008-03-26 14:34 | 資料紹介
  日 正 上 人

 大正六年五月から十一月まで病気休職中寂日坊の小笠原慈明師を親許のようにして当時無住であつた百貫坊に起臥し一日も欠かさず上人の丑寅の勤行に参詣した。五座全部方便、寿量両品、特に二座には方便品の長行が加えられるので十二時に始まり二時まで続くのであつた。半年の滞在で日夜方丈に出入りさせて頂いたのであるから諸行事すべて所化さんと一緒に勤め七月十四日の一夜不断の勤行の後、たたき牛蒡を副えたお粥を戴いたこともある。その後軍職に復してからも上人には度々お目通りした。
 朝の勤行で方便品の世雄偈に入る時には常に丑寅勤行の時の上人の御姿が瞼に浮びあの御声が耳底に響くのである。
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by siawaseo_anatani | 2008-03-25 01:42 | 資料紹介
  日 応 上 人

 単独でお目通りして親しく御言葉を賜わつたのはもう御隠居なされた時、場所は新築の蓮葉庵であつた。上人は未知の信徒に対しては大変御叮寧であらせられ、「貴方様」と仰せられて無我夢中になつてしまつた。少年時代から東京寺院の法会には何時も御導師をなされ自我偈の現有滅不滅が「ゲンンーメンーメ」というように聞こえたことと御説法の「彼は脱、是は種、彼は一品二半、是は唯題目の五字なり」と仰せられたバス調の荘重なお声が今でも強く耳に響くように思われる。
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by siawaseo_anatani | 2008-03-22 03:22 | 資料紹介
研究者やマスコミ関係者はもちろんのこと、創価学会に関心のある人には必携必読の本である。
聖教新聞社版や和光社版の『戸田城聖全集』にも収録されていない北海道時代をふくむ戦前の日記などが掲載されており、非常に興味深いだけでなく、資料としての価値も大きい。
この本が出版されたのは1970年の秋、実際には奥付の発行年月日よりも1、2ヵ月前に発売されている。
この年は正月からマスコミで創価学会と公明党によるいわゆる「言論・出版妨害事件」が話題になっていた。
この年、創価学会(池田大作氏個人に関するものも含む)・公明党・日蓮正宗について出版された書物はパンフレット類を含め40冊を超える。
大半は批判書であるが、5月3日以降はヨイショ本も数冊出版されている。

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d0153496_1733265.jpg「自分は妙法蓮華経が、仏陀の命であり、我等衆生の命であると確信している。この確信は、釈尊の自ら、自分に教えられたところであり、日蓮の自ら、我が身にささやかれたところである。自分は少なくとも日本国において、法華経を読める者の一人たるを確信する。
 人曰く「あなたは、どこで法華経を知りましたか」と。
 自分は答えて曰く「五百塵点劫以前に釈尊に教えを聞き、現世において、しかも、牢獄以来これを思い出しました」と。
 しかし、人のよくこれを信ずるももはない。
 経に曰く「一切声聞辟支仏の知る能わざるところ」と。また、人のよく至るなしと。人の信ぜざるもまたむべなるかな。
 深く過去遠々劫より、この五体のまま経を聞きたりとするも、だれかよく信ぜん。されど我れは、深く了解せり。この五体このままに仏に遇い教えを聞き、今ここに受持すと。

  独房にての歌を想い出せるままに。

  つかれ果て生きる力も失いて
   独房の窓に母の呼びにき

 この境地は弱かった。もし父人を知りなばこの歌はなかったであろうか。それともこんなに弱くなってこそ、真の父を知ったのであろうか。

  友もなく屋根に咲く野辺の草
   力強きを誇りてぞある

 まだ法華経を知らざる前、Lさんを想って、自分の力を、生命力を、誇ったものだが、妙法を知らざる生命は、その後一年で前記の歌となった。
 やはり妙法の命でなくては、強い強い生命に生きられまい。

  安らかな強き力の我が命
   友と国とに捧げてぞ見ん

(昭和二十一年三月三日)

*「心影余滴」より。
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戸田城聖『若き日の手記・獄中記』175〜177頁、青娥書房、
    初版昭和45年11月15日、再版46年1月15日

参考:国立国会図書館請求記号 HM191-24
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by siawaseo_anatani | 2008-03-19 17:22 | 資料紹介
  日 布 上 人
 明治四十四年幼年学校最後の夏休みを寂日坊で過ごしたので  あるが他の登山客と一緒にお目通りした際、「為陰徳者 天報以福」と御染筆なされた扇子を拝領し上人は何も仰せられなかつたが御案内役の寂日坊住職法運師、すなわち後の日開上人から「見所のある少年だ」と仰せられたと伝えられその後も「竹尾清澄を呼べ」と仰せられ富士見庵に伺候してお目通り客の御相伴にあづかつたことが何回かあつた。
 何時のことであつたか上人の御手料理の中に馬鈴薯の天プラがあつたので御命日には必ず御宝前に備えて御遺徳を偲び奉ることを忘れない。お扇子は惜しくも戦災で家と共に烏有に帰し、また私として上人の御目がねに御応えするような仕事は何一つできないで一生を終ろうとしている。まことに申訳ないことであるが、報を天に求めて人に求めず。及ばずながら陰徳を為すことを処世の信条とし、順風に乗つて進む時にも「日布様の御言葉にはまだまだ」と自ら誡めて努力し逆境に苦む時にも「日布様が御覧になつていらつしゃるのだ、やるぞ」と奮い起つて五十年片時もこの言葉を忘れたことはない。そして、何の望も持たないような七十歳の今日でも何かできるような一筋の張りを心の中に感ずるのは矢張りこの御言葉のためであつて恐らく来生まで私から離れることはないであろう。日蓮大聖人は化城喩品について「化城即宝処である。化城と執する執情滅するを即滅化城というなり、念々の化城、念々の宝処」と仰せられた。
 日布上人の御言葉は私の人生航路上憩の化城でありまた私なりにその時その時の宝処でもあつた。

    ×     ×     ×     ×     ×

 昭和三十五年十一月十七日日淳上人第一周御忌御法要に参詣しての帰途三門から小野真道師とバスに同乗し富士宮までの車中で日布上人の御追憶談を承り、その中に上人が大変牛がお好きで或る時小野師が富士見庵に伺候すると偶々裏庭に一頭の牛が迷い込んで来た。
 上人はそれを御覧になり小野師にその牛を逃がさない様に押さえておくようにとお命じになつて奥におはいりになつたまま夕方になつてもお見えにならなかつたが通りかかつた奥番の馬渡広泰師が見つけて「気の毒なことをした上人はお忘れになつたに違いない」といつて救われたというお話があつた。牛をつかまえて困つていた小野師と、何気なくお漏らしなされた御言葉を御相伝ででもあるかのように五十年間ひとりで心に念じ続けて来た私と並んでいる姿を御覧になつて日布上人も定めし御笑いになつておられることであろうとふと憶い浮べ、上人の御眼識違いとなるようなことではあるが、子に語り孫に伝えて見る気になつた。それにしても上人のおのずからなる善巧方便の有難さはまことに尊いものである。
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by siawaseo_anatani | 2008-03-15 00:50 | 資料紹介
十 二 代 法 主 の 化 に 浴 し て
 
 私の初登山は明治三十三年の御大会で、満六歳十ヵ月小学一年生の時であつた。「学校に上がつて寿量品を覚えたら」というのがお山へ連れていつて貰う条件であつた。それまで朝夕の勤行はお題目千回以上、皆と一緒なら方便品と自我偈はついて往かたし寿量品ができるようになつたのは小学入学より前のことである。
 その頃お山へ行くには朝暗いうちに汽車に乗り品川で東海道線に乗換えたのであるが、その乗換を待つホームのすぐ下は海で寄せてはかえす浪の有様まではつきり記憶に残つている。
 初登山の汽車中のことは何一つ憶い出せないが、鉄道馬車を下りた大宮(現在の富士宮)の町はずれで鏑木の伯父や金子仲治郎さんなどとおそばを喰べ結いつけ草履で大石寺へ向つた時のことはよく覚えている。途中の川の水の中に入つて渡ることなどいろいろ聞かされていたがその時は丸木橋が掛けられてあつた。この丸木橋はその後大正年間までもその侭の姿が残つていた。最終行程の坂道にさしかかつた時にはうす暗くなつていたが少しも疲れず元気に先行し立停つて外の人の来るのを待つたりした。
 御大会については御影堂の夜の論議式の模様だけが不思議にもはつきり記憶に残りつていて三十何年か後日開上人の御導師の下に再拝観した時にはそれがつい昨日の出来事のように憶い出されるのであつた。
 当時の御法主は日応上人で一般に御前様(ごぜんさま)と申上げ日布上人が富士見庵に御隠居中であらせられた。帰りには妙光寺の講中は二手に分かれ私達は往路と同じ川沿の道を、他の一手は下の坊の傍から山腹を下る新道を通つたのであるが途中でハンカチを振つて合図し合つたのを覚えている。爾来六十三年、十二代法主の化に浴することになつたのである。上人様方について書遺し語り伝えたいことは数多くあるがそれは別冊に譲り茲にはお名前を拝記するに添えて一筆録するに止めることにする。
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by siawaseo_anatani | 2008-03-13 05:38 | 資料紹介

小樽問答についての参考

昨日付けの「聖教新聞」で、久しぶりに小樽問答について触れていた。
社説は、「あす、小樽問答記念日 学会が日蓮仏法の正義を宣揚」とある。
今日付けでは寸鉄欄に、
「3・11「小樽問答」の日。池田青年の司会で邪僧は震撼。破邪顕正の師子吼。」
さらに声の欄には、
「不滅の原点−「小樽問答記念日」 邪義を打ち破った言論戦 北海道小樽市 青山繁幸(71歳)」
という投書も掲載されている。

しかし、よくよく考えれば、小樽問答での学会側の教学面の主張は、当時の日蓮正宗教学、つまり相伝・門流宗学による声高で一方的な開陳にすぎない。
小樽問答前後の状況を含めて以下の資料を読まれることを勧める。
また、当時の録音は必聴であり、デジタル化もされている。
録音の反訳は日蓮宗現代宗教研究所のHPでも公開されているが、反訳作業をおこなったのは大木道惠である。

小樽問答関連の主な文献

「宗義討論会の真相」『宗門改造』昭和30年4月15日号
「日蓮正宗との問答の実況と感想」『日蓮宗宗報』46号
「「小樽事件」を裁く」『日蓮宗宗報』53号、昭和30年
長谷川義一『小樽問答の真相』池之端妙顕寺発行、昭和31年3月11日
日蓮宗現代宗教研究所『日蓮宗の近現代 他教団対応のあゆみ』
           日蓮宗宗務院発行、1966年3月1日、全384頁、非売品
 石川教張「「小樽問答」の概要と実態」240〜260頁
 小松智元「小樽問答私記」261〜271頁
 秋永智徳「小樽問答からの課題」272〜276頁
 三原正資「創価学会への教学的対応とその特色」277〜282頁
 石川教張「創価学会に対する教義批判の展開 長谷川義一の研究を中心に」283〜297頁
日蓮宗現代宗教研究所『現代宗教研究 40号』日蓮宗宗務院、平成18年3月31日、非売品

小平芳平編『小樽問答誌』創価学会、昭和30年5月3日、全233頁
創価学会教学部小平芳平『小樽問答誌』創価学会、昭和37年7月3日、増訂再版、全291頁
池田大作『人間革命』第9巻、聖教文庫。

講師略歴
[日蓮宗]
長谷川義一 明治30年3月2日〜昭和34年12月16日(63歳)。東洋大学卒。明治41年顕本法華宗僧員免許。千葉県真福寺住職、千葉県常泉寺住職を経て大正11年に東京下谷妙顕寺住職。大正11年顕本法華宗宗務庁録事、布教師。大正13年統合宗学林高等部教授、同学林学監。昭和16年立正大学専門部講師、日蓮宗専任布教師。昭和19年立正大学宗学研究所員となる。戦後、立正大学専門部教授、東洋大学宗教講座講師、立正大学講師、日蓮宗北部布教師会長。昭和25年、僧正となり、日蓮宗常任布教師、日蓮宗教学審議会委員となる。著書に、『寂光寺日鑑上人の教学思想』3巻(昭和17)、『小樽問答の真相』(昭和31)、『什門教学伝統誌』(昭和33)。遺稿集『祕鍵』が没後刊行。

室住一妙 明治37年7月10日生。大正9年日蓮宗大学中等部に入学。大学予科、本科、研究科3年を了え、昭和9年教職に就く。小樽問答当時は、身延山短期大学、身延山高等学校勤務。著書に、『身延文庫略沿革』(昭和18)、『行学院日朝上人』(昭和26)、『開目抄に聞く』(昭和41)、『日蓮大聖人と倶に』(昭和42)。

[創価学会]
小平芳平  大正10年8月13日生。昭和16年7月日蓮正宗入信(創価教育学会入会)。昭和22年中央大学法学部卒。池田大作を折伏したことは知る人ぞ知る話。小樽問答当時は、創価学会教学部長、大白蓮華編集長、教学部教授。後に公明党参議院議員となる。創価学会参議。著書に、『創価学会』『小樽問答誌』など。池田大作著『人間革命』には山平忠平の名で登場する。

辻武寿 大正7年4月3日生。昭和13年東京府豊島師範学校卒。昭和15年7月日蓮正宗入信(創価教育学会入会)。小樽問答当時は、創価学会青年部長、蒲田支部幹事、教学部教授。後に、創価学会理事。公明党第2代委員長を短期間つとめる。創価学会副会長、創価学会参議会議長。著書に、『私の個人指導』など。池田大作著『人間革命』には関久男の名で登場する。
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by siawaseo_anatani | 2008-03-11 17:42 | 資料紹介
三谷素啓の直達講で副講頭を勤めていた竹尾清澄氏の著作を紹介する。
竹尾氏は三谷亡き後、直達講を我が物にしようとした牧口・戸田に対して、潔く直達講を解散することで拒否抵抗を示した。
『唯信唯行』はタイプ印刷されたA5判の私家版小冊子で、今回使用したものは著者直筆の書き入れ本のコピーであり、一般に流布している本文とは多少異なる箇所がある。
奥付がないために発行年月日は不明であるが、「まえがき」の末尾に「昭和三十八年一月二十五日」とある。
今回は、目次とまえがきをアップするが、促音などを含め表記は原本のままである。

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     目    次

ま え が き

十二代法主の化に浴して
  日布上人・日応上人・日正上人
  日柱上人・日亨上人・日開上人
  日隆上人・日恭上人・日満上人
  日昇上人・日淳上人・日達上人
  日亨上人御遷化の前後
  日達上人御代替御法要参詣

唯 信 唯 行
  父母を識る
  本已有善・本未有善と本化
  口 業 正 意
  日寛上人の教行証判によせて在家の教学を考える
  発迹顕本──龍の口御法難に因んで

先師御指南のままに
  日寛上人の御言葉から
   法報応三身
   修   行
   観   心
   南無ということ
   本 と 迹
  日応上人の御言葉から
   本地難思の境智
   上行菩薩の内証と外用

あ と が き

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      ま え が き

                古稀に寄せて
                 子に遺し孫に伝う

 私にとつて古稀は追われるともなく、また、喘ぐともなく何時とはなしに辿りついた宿場である。七人の子の父と成つてからは還暦が私の人生のゴールであつた。還暦にはあの子がどうなつてこの子がどうして、万事は還暦までと考えていたその生活設計は戦災のため根底から覆えされてしまつた。それから十七年たった今立停まつて身辺を見廻すと、そこには伸びてゆく子供達に対する安心感の上昇線と自分の老衰の尺度の下降線との交叉点があるような気がする。薄れゆく過去の断片的な記憶の中には最早愛着もなければ慚愧も悔恨もなくまた未来に求むべき何者もない。世事万端行雲流水吾れにおいて何かあらん、煩悩即菩提生死即涅槃の悟りは道遠く遥かの彼方にあるが、一念妙法に帰すれば吾一身の五大は法界に遍満する所証の境であり、唱題にこめる一念は法界に遍満する能証の智である。そこにおのずからなる境智冥合、刹那成道の法悦が湧き出で思わざるに微吟舌端に躍る、希くはこの境涯を守り目に悪色を見、耳に悪声を聞くこと少なくして残りの幾年かを過ごし度いものである。斯くして迎える私の七十歳は安住地につながる最終コースのスタートになるのではなかろうか。
 日昇上人が常泉寺の住職であられた終戦の年、吉祥寺の仮寓に御立寄りになり依法院の戒名を過去帳に御記入下され水を差上げた処、「吉祥寺の水はうまい。もう一杯」と御所望遊ばされたことがあるが、その後間もなく第六十四世嗣法として猊座にお上りになった時その御座替りの模様を詳しく御誌しになつた御懇篤な御手紙を賜わつた。私は早速額に納めて欄間に奉掲し四六時中仰ぎ拝して無上の光栄に感激し家族一同万代に伝うべき家宝と心得ている。しかし、あの戦災のような場合を思うと何とかして出来るだけ原形に近い複写を造つてもう分家したり近く分家する子供達に与えたいものだと絶えず考えていた。それがどうやら実現しそうになつて見ると急に胸に温かいときめきが起り、ささやかな古稀の宴が今から楽しみ待たれるのである。そこで少しばかり私自身の面影も残しておきたいと思つて、最近二、三年に妙の光に投稿した記事の中から幾つかのものを集録しそれに二、三の稿を加えて見たら小冊子にまとめるのに恰適な紙数になつた。記して此処に至るとどうしたものか不意に頭の中が空虚になって一切の意欲も思索も消え去り全く捉まえ所がない状態になつてしまつた。吾れながら不思議でならない。

         昭和三十八年一月二十五日

              竹  尾  清  澄
                      七十歳
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by siawaseo_anatani | 2008-03-11 03:50 | 資料紹介