FBI(笑)Oh My Buddaha !・直接間接を問わず、関係・関連することがらを含めメモしていく。過去の記事も加筆訂正することがある。


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平成2年
・11月16日、第35回本部幹部会で池田名誉会長が暗に日顕法主を批判。
・12月13日、東京墨田区の常勝寺でおこなわれた宗門と学会の「連絡会議」の席上、宗門は前記池田名誉会長のスピーチについて質問書を提出したが、学会側に受取を拒否されたため送付した(以下、「お尋ね」)。
・12月23日、秋谷栄之助会長の名で、「お尋ね」に対する「お伺い」文書を回答のかわりに送付(別名・九項目詰問状)。
・12月26日、宗務院から秋谷会長に対し、「お伺い」を読んだ上で「通知」が送られる。
・12月27日、宗務院は宗規を一部改正し、法華講の総講頭・大講頭に任期制を導入、合わせて、名誉総講頭の制度を廃止した。
・12月28日、秋谷会長が日蓮正宗総監藤本日潤に宛て「通知」に対する返答を送付。
・12月29日、藤本総監より秋谷会長に、「お伺い」に対する「回答」を送付。

平成3年
・1月1日、「お尋ね」に対する正式な「返答」を秋谷会長が藤本総監宛てに送付。学会の宗門に対する本格的反撃の開始である。
・この日から全国の末寺に対して『地湧』と題する怪文書がFAXで送られはじめる。
・1月12日、藤本総監が『「「お尋ね」に対する回答」についての指摘』を秋谷会長宛てに送付。
・1月16日、『指摘』に対する抗議を学会が送付。
・1月17日、抗議の続きを宗門に送付。
・1月30日、学会古参大幹部の連名で「お尋ね」に対する「見解」を発表。
・3月5日、池田SGI会長に対して、海外組織にSGI意外も認める旨の通知を送付。
・3月16日、大石寺参拝に関して、末寺の添書の持参を条件とする旨の通達を秋谷会長に対して、大石寺主任理事名で送付。
・11月28日、日蓮正宗、創価学会に対して「破門」を通告。

平成4年
・7月4日、日蓮正宗東京第二布教区宗務支院長高橋信興名で池田大作を「信徒除名処分」することを決定、新宿区の大願寺で記者会見
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by siawaseo_anatani | 2008-04-29 04:20 | メモ
昭和45年
・「国立戒壇」をめぐり、学会・宗門・妙信講のあいだで論争が惹起。学会と妙信講は互いに66世細井日達法主を取り合うが、日達法主は国立戒壇を放棄し学会の路線に近づく。

昭和48年
・大石寺正本堂建立一周年法要の際、池田会長が日達法主に対して「宗門から学会に対し十三億五千万円の寄付」をするよう怒鳴りつける。
・この年、池田会長は「日蓮直結」「本尊直結」「寺院軽視」を強調。

昭和49年
・北条浩副会長が「入信前の宗教、日蓮正宗」と手記に記述。
・宗門が妙信講に対して「解散処分」を宣告。また、妙信講に同調する僧侶二名に対しては擯斥処分に付す。
・日達法主、暗に池田会長及び学会を批判しはじめる。
・池田会長に対する報告書の中で北条副会長は「宗門はカトリック、学会はプロテスタント」などと正宗からの独立を射程にいれた和戦両面作戦を提言。

昭和50年
・宗門に無断で模刻した本尊を学会本部に掲げる。
・学会「師弟不二」「師への帰命」を強調しはじめる。

昭和51年
・学会本部総会で池田会長は「宗門の発展も学会があったればこそ」と発言。
・僧侶及び宗門に対する蔑視がさらに強くなる。

昭和52年
・僧侶を学会本部に呼びつけ吊るし上げを開始する。
・池田会長「本尊はどれも同じ」と発言。宗門は従で学会が主という、いわゆる「五十二年路線」活発化する。
・宗門若手僧侶たちが学会批判を開始、日達法主も「しっかり慎重にやれよ」と応援、いわゆる「正信覚醒運動」の開始。
・週刊誌が学会と宗門の対立を盛んに報道しはじめる。

昭和53年
・2月9日、大石寺において時事懇談会開催、学会問題を討議。
・2月12日、池田会長、辻武寿副会長、和泉覚副会長らと大石寺に参拝(いわゆる「お詫び登山」)。
・2月25日、関東・東海道合同本部長会で軌道修正を示唆。このころから大幹部に責任を転嫁する発言が多くなる。
・6月30日、『聖教新聞』に突然「教学上の基本問題について」と題する記事を掲載。先に宗門から提出された学会の教義逸脱・謗法の指摘質問状に対す回答であったが、質問項目の掲載がなく学会員には何を意味するのか理解できなかった。
・9月14日、学会教学部長原島崇、若手僧侶との話し合いで八体の本尊模刻を認める。
・9月28日、模刻本尊を大石寺宝蔵に収納。
・10月7日、大石寺において「創価学会創立四十八周年記念登山代表者会」開催。席上で辻副会長が、模刻本尊について言及。池田会長の「総講頭」として「お詫び」の発言に対して法華講が猛反発し「総講頭辞任勧告」を出す。

昭和54年
・4月22日、池田氏が会長及び総講頭を辞任、名誉会長、名誉総講頭となる。
・7月22日、日達法主死去。
・阿部信雄宗門教学部長が67世法主となり日顕と名乗る。日顕法主は学会を牽制しながらも正信覚醒運動にブレーキをかけはじめる。

昭和55年
・日顕法主及び宗務院は正信覚醒運動活動僧侶を批判、池田大作を礼讃。
・法華講連合会全役員が宗門に対して抗議の辞任。
・日顕法主が正信覚醒運動活動僧侶(いわゆる正信会)を大量処分しはじめ、約二百名の僧侶が宗門より擯斥される(現在も裁判継続中)。これによって第1次宗創紛争は終結し、以後、平成2年までは宗創連合軍対正信会という構図であった。

昭和59年
・1月2日、池田大作氏法華講総講頭に復帰。宗創蜜月ピーク。
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by siawaseo_anatani | 2008-04-28 03:52 | メモ
昭和09年
・日蓮正宗法華講のひとつであった直達講(じきたつこう)講頭の三谷素啓死去に際して牧口は同講講頭になろうとするも講員らは同講解散をもって抵抗した。

昭和15年
・日蓮正宗中野教会歓喜寮住職堀米泰栄を創価教育学会青年部員らがつるし上げる。

昭和18年
・会長牧口、理事長戸田城外ら総本山大石寺で宗門庶務部長渡辺慈海らより伊勢神宮の大麻を祀るように申し渡され、了承し下山するも学会内部においては宗門を非難する。
・牧口、戸田ら二十数名、物品統制令違反などで検挙され、のちに不敬罪、治安維持法違反などで起訴される。
・宗門は牧口らを「登山停止処分」「信徒除名処分」に付す。

昭和19年
・東京拘置所内で栄養失調と老衰のため牧口死亡。

昭和20年
・大石寺火災により62世法主鈴木日恭焼死。

昭和27年
・「宗旨建立七百年祭」の夜、大石寺において学会男子青年部員多数が正宗僧侶小笠原慈聞を拉致、暴行を加える「狸祭事件」発生。
・宗会は戸田の大講頭罷免と登山停止を決議する。
・宗会議員たちの寺に学会員が多数押しかけつるし上げて決議撤回を強要。
・最後まで撤回しなかったのは数名。
・のち戸田はかたちばかりの「御詫状」を提出し、大石寺に五重の塔を建立するということで大講頭に留まる。

昭和31年
・大阪の正宗寺院仏生山蓮華寺の門前に学会員がピケをはり信徒の出入りを妨害する。崎尾正道住職は学会員らに対して本尊の返却を求める。
・のちに蓮華寺は四国の大乗寺と共に日蓮正宗から離脱し日蓮実宗を名乗る。

昭和33年
・大石寺大講堂落慶法要の際、学会参謀室長池田大作らが大石寺所化頭的場正順を本山内に流れる川に落とすなど暴行を加える。
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by siawaseo_anatani | 2008-04-27 04:13 | メモ
 昭和二十三年、浅井甚兵衛氏は妙光寺僧俗との軋轢から、池袋の法道院(早瀬道応住職)に所属を移し、昭和三十一年六月、「東京妙信講」を法道院法華講の中に発展解消させ、甚兵衞氏が講頭に就任、昭衞氏は青年部長になりました。
 翌昭和三十二年八月には「妙信講」を再組織し本部を文京区音羽にあった甚兵衛氏の自宅に置きました。
 このときすでに早瀬住職や法道院法華講と対立していたといわれています。
 昭和三十三年一月、大石寺六十五世堀米日淳法主から「法華講支部妙信講」として認証され、東京・本所吾妻橋の妙縁寺(松本諦雄=日仁住職)に三度目の所属変更をしています。
 顕正会は日淳法主から直接に認証され「妙信講はたたかう法華講になれ」といわれたといいますが、このときの妙信講は創価学会のような独立した組織ではなく、妙縁寺の中の一講中としての認証でした。
 昭和三十七年九月、日蓮正宗法華講全国連合会が結成されましたが、他の法華講と対立していた妙信講はこれに加入しませんでした。呼称もこのころから「日蓮正宗妙信講」と自称しはじめたようです。
 創価学会が「国立戒壇」を放棄し、日蓮正宗が「国立戒壇という言い方をやめる」と決定し大石寺の正本堂が「現時における戒壇」だと言い始めると、妙信講は「日蓮大聖人のご遺命破壊だ」と主張しだしましたが、正本堂建立のためのご供養金には妙信講も参加していました。
 昭和四十八年十二月、妙信講は妙縁寺所属のまま、浅井氏の自宅近く、東京板橋の常盤台に「本部会館」を建設し在家教団化への第一歩を踏み出しました。
 昭和五十年八月に妙信講は講中解散処分をされ、このとき妙縁寺の松本住職と日蓮正宗の老僧八木直道師が妙信講を支持したために日蓮正宗から擯斥処分されています。
 その後、埼玉県和光市に「顕正寺」建設しましたが、この「顕正寺」を名称変更・住所移転したものが「宗教法人 日蓮正宗顕正会」です。
 顕正会は「国立戒壇を主張したから解散処分をうけた」といいますが、甚兵衛氏は妙信講時代から、所属寺院の住職や檀信徒たちとの対立をくりかえし、何度も所属寺院をかえています。
 ほかの信徒らと協調することができない、僧侶が気に入らなければ他所の寺院に移る、という唯我独尊的な行動をとっていたわけです。
 また、甚兵衛氏は亡くなる前に昭衞氏に妙信講の講頭を世襲しており、これは新宗教一般によくみられる事例です。
 さらに、甚兵衛氏が亡くなると前述のように「日蓮正宗妙信講」から「日蓮正宗顕正会」と改称し、現在は「冨士大石寺顕正会」と自称しているわけですが、日蓮正宗は、寺院や僧侶を軽視する顕正会や創価学会は異流義・異端とみなして、信徒とは認めていません。
 顕正会も創価学会も、独自に勤行の方法を定め葬儀や行事を行なっていますから「日蓮正宗系の在家教団」「日蓮正宗系の新宗教」といえるでしょう。
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by siawaseo_anatani | 2008-04-25 02:30 | 顕正会(妙信講)
 顕正会は現在、文部大臣認証の宗教法人で正式名称は「宗教法人顕正会」といいます。
 「日蓮正宗顕正会」とか「冨士大石寺顕正会」というのは自称で、顕正会となのる前は「妙信講」という、日蓮正宗妙縁寺(東京吾妻橋)所属の一法華講でした。
 妙信講の初代講頭は浅井甚兵衛氏(故人)で、顕正会の現会長浅井昭衞氏の父親です。
 甚兵衛氏は大正十五年十二月に品川の日蓮正宗妙光寺信徒になりました。当時の住職は第二代有元廣賀(日仁)師です。
 妙光寺の初代住職は冨士本智境(日奘)師で、大石寺の異端派とされている堅樹派完器講の僧でしたが、先輩の佐野広謙尼とともに大石寺に帰伏しました。
 甚兵衛氏が入信した当時の有元師は、大石寺土屋日柱法主に対する正宗僧侶のクーデターに積極的に参加し、後には法主選挙にも立候補したり、とても精力的な僧侶であったといえます。
 昭和になってからは国策推進運動にも積極的に取り組み「国旗祭」の制定を主張するなど、当時の日蓮正宗にあっては或る意味社会性の或る僧侶でした。
 現在の顕正会会長が一見すると右翼チックにみえるのは、多感な少年時代に有元師の言動に接していた影響もあるのかもしれません。
 弟分には、これまた或る意味社会性を持っていた僧侶で「神本仏迹論」を主張した小笠原慈聞師がいました。
 有元師は昭和十一年に亡くなりましたが、昭和十六年八月、第三代住職秋山日満師(戦後に大石寺法主)の時に、甚兵衛氏は妙光寺所属の妙信講を作り、翌十七年四月に大石寺鈴木日恭法主から妙光寺所属の「東京妙信講」の名称で法華講として認証されました。
 秋山住職は妙光寺総代になった甚兵衛氏ら檀信徒の反発にあい昭和十七年八月に住職を辞任しました。
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by siawaseo_anatani | 2008-04-24 13:23 | 顕正会(妙信講)
 創価学会と日蓮正宗の関係は極めて微妙なバランスの上に成立していたといえよう。
 自家撞着と独善的体質を「七百年の歴史」というテクニカルタームでオブラートに包んだ伝統教団である日蓮正宗宗門と、日蓮正宗の権威を利用し教勢つまり影響力の拡大のみを追う新興教団である創価学会は、互いに利用しあいながら主導権の完全掌握に腐心してきた。
 これは、創価教育学会初代会長牧口常三郎の時代からすでに始まっていた部分もある。
 戦後の戸田城聖時代は、会員の急激な膨張による寺院収入の増加と大石寺参拝の増加による本山収入の大幅な増加で、日蓮正宗宗門に対する一種の圧力団体と化したため、創価学会に対する僧侶の拒否感は全国的に広まったが、日蓮正宗宗務院庶務部長の細井精道(のちの細井日達66世・故人)が戸田シンパであったために、多くの僧侶は次第に学会員を「お客さん」として扱うようになった。
 池田大作会長時代になってからは、いっそう会員が増え、政界進出に伴う教学の再構築が進み、日蓮正宗の僧侶が創価学会の出版物で教学を学ぶといった転倒した状態となり、それは現在でも続いている。
 また、寺院の建立寄進も数百カ寺に及び成長率は戸田時代の九百パーセントにもなる。
 つまり、金も寺も教学も、さらには僧侶となる人材さえも創価学会に依存しきった日蓮正宗宗門に対して、創価学会なくして宗門なしといった感覚が醸成されることは成り行きであったろう。
 最近の創価学会による日蓮正宗攻撃は、初期に多く見られた金と酒色といった批判よりも、教学とくに日蓮正宗の謗法問題に関するものなどが多くなっているが、これは十年位ではとても出来るものではないと思われる。
 おそらくこれは池田時代初期か戸田時代からかなり研究されていたものであろう。
 創価学会としては、いまさら日蓮正宗との関係を修復する必要も感じていないと見受けられる。
 現時点では、創価学会側の圧倒的優位は事実であり、日蓮正宗にそれを崩せるものではあるまい。
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by siawaseo_anatani | 2008-04-24 01:29 | メモ
  日 隆 上 人

 上人の御在位中にお目通りしたことはないが、雄治を伴つて御大会に登山する途中汽車の中で図らずもお目にかかつた。気がついたのが丹那トンネルを出てからで、車中乗客は四・五名であつたから上人は熱海あたりで御乗車になつたのではないかと今から思い出される。御挨拶に出て少時お話して自席に戻ると、三島駅でつと御立ちになつた上人がわざわざ私の所へ御運びになり「此処で降りますから」と仰せられて下車遊ばされた。私は本山に御出仕になることとばかり考えていたので吃驚してしまつた。その節上人は御大会にはお見えにならなかつた。勿論それは御隠居後のことである。その後腎臓病で常泉寺に御静養中一度お見舞に上がりお目通りしたことがある。
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by siawaseo_anatani | 2008-04-22 03:44 | 資料紹介
  日 開 上 人

 母の病が危篤となり折から東京に御在住遊ばされた上人に病気平癒のお願いをした処、見舞に行つてやるという有難い仰せが執事を経て伝えられ、執事の御案内で大久保の家に御来駕の栄を賜わつた。それは昭和六年一月六日のことである。上人は忝くも病臥する母を枕頭にお見舞下され次いで二階でお小憩の際御揮毫を請うと「無疑曰信」と大書され下書共同じものを二枚下された。その家宝である扁額を戦災で焼かれてしまつたことは子供達の頭にも残念な想出となつている。澄雄と国安にとつて上人は忝くも名付親である。お弟子の千種法輝師が「日開上人は近頃急にお弱りになつた」と漏らされたがその後間もなく御遷化遊ばされた。御臨終の模様について妙修師から承つたが前日に何であつたか酢の物を御所望になり戦時下物資不足の折から酢がないので柚子を代用して調理し差上げた処大変お悦びになつた。そして御遷化は常侍しておられた師も間に合わないほんの一瞬であつた。蓮葉庵池畔の桜の小樹には十一月のその日時ならぬ花が咲いた。ああ尊しとも尊し。
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by siawaseo_anatani | 2008-04-20 05:53 | 資料紹介
  日 亨 上 人

d0153496_3501820.jpg 上人御遷化の妙相は、世間閑是非の論を一掃し、未得謂已得の増上慢の思惟を摧破して非滅現滅 生死即涅槃の理を事相にお示しなされたものである。身近にこの垂教を仰ぐことのできた果報は言辞を以て述べることなど及ぶべくもない。捨身の信行により万劫に亘る御報恩を誓うのみである。
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by siawaseo_anatani | 2008-04-19 06:37 | 資料紹介