FBI(笑)Oh My Buddaha !・直接間接を問わず、関係・関連することがらを含めメモしていく。過去の記事も加筆訂正することがある。


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 牧口さんの思想はおそらく亡くなるまで「人生地理学」をもって原点とし基本としていたように思います。

 その思想を「どのように実社会において有効たらしめるか」というところから彼の宗教遍歴と運動の変遷があったと考えるべきでしょう。

 戸田さんは、その牧口さんのある部分を継承したとはいえるでしょう。

 牧口さんの「人生地理学」における思想的到達点とは、ある意味では「発見」であり「卓見」であり「創造」でもありました。

 それをそのまま篋底にしまい込んでいればそれは「個人」に属するものでしかありません。

 修行とか達観というのもきわめて「個人」に属するものなのです。

 また「思想そのもの」も同様です。

 それらと実社会の間にはなんら直截的つながり、脈絡といってもいいですし関連といってもいいですが、それはありません。

 その「個人」がそれらを意志的に社会に機能させようとして、はじめてなんらかの「意味」をもつということです。

 牧口さんの場合は「d0153496_16225246.jpg人生地理学」の出版を考えたことで「意味」が生じ、出版したことで「社会性」を持つこととなったわけです。

 その「個人レベル」での「意味」というものを「存在意義」ととらえるか、それとも他のなんらかのものとしてとらえるのか、それはある種の「カテゴライズ」であり「価値判断」に属することになります。

「宗教」とはまさに「カテゴライズ」であり「価値判断」による囲い込みであるわけです。

 さらにその強度を人為的に支配するのが「教団」ということになります。

 つまり
○個人における「思想」「信仰」「修行」「達観」などというものは「社会性」とは直截には関係がない。
○それらが「宗教的共同体」として成立することによって社会と関わることになるが、ここで「個」と「社会」との葛藤が生じる。
○その葛藤を宗教的共同体の中において合理化することで「教団」が発生する。

 大ざっぱにはこのような段階があると思います。
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by siawaseo_anatani | 2012-04-30 16:23 | メモ

「古島一雄」

創価学会問題を理解するためのキーワード

「古島一雄」
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池田大作の小説『人間革命』や石井いさみの『劇画人間革命』では悪人のように書かれているが、ジャーナリスト出身であり、衆議院議員、貴族院議員でした。

金銭には潔癖で通し」たと、政財界マスコミでの人物評は高い。

1865年(慶応元年)8/1~1952年(昭和27年)5/26、享年86歳。

葬儀委員長、吉田茂は次のように述べた。

「翁(古島)の一生は清貧と剛直の記録で、常に若々しい政治感覚をもって、憲政の確立に努めた」

読売新聞夕刊(1952年5/27)は、

古島翁は一生を通じて中国問題に尽力し、その方面のかくれた功績も忘れることは出来ない、この翁今やなし」

と記している。

古島については、

「犬養毅の参謀、影武者、黒衣」(中村 義・東京学芸大学名誉教授)

という見方もあるが、その言動は「誠心誠意」「清貧」の人物であった。

長野において教育者たちの育成に携わっていたときには、憲兵隊に召喚されてもいる。(1937年7月)

この時代の長野の教師の1人は、またキーワードとなる人物でもある。

戸田城聖の恩人といって過言ではない。
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by siawaseo_anatani | 2012-04-21 01:15 | メモ

師匠と弟子

お稽古ごとの場合、直接教えてくれるのが師匠です。

師匠の師匠とか家元を師匠とは言いません。

役座さんの場合は、親分。

親分の親分は大親分ですが、大親分と子分に親子盃はありませんが子分は大親分と呼びます。

つまり、直接に親しくやり取りを行なって教えを授受するのが「師弟」です。

これは学問の世界でも当たり前のことです。

いや、スポーツや囲碁や将棋、芸術や工芸、手仕事の世界、世間のあらゆる場において、面識の無い師弟関係など成立しません

直接教えを受けていないのに
「師匠」
と言ってしまう創価学会
のことばは、外部には違和感しかもたらさないのではないでしょうか。

つまり、ここでも「先生」と「師匠」を混同しているように思えます。

「師匠だと思っている」は
「師匠である」は×

「弟子のつもりでいる」は
「弟子である」は×

学会員と非学会員では同じことばでも意味が違うケースが多々あります。

あと、学会員が学会員ではないひとに向かって
「●●先生は」
などと言ったり、グリーなどのコミュで書いたりしていますが、これも世間では恥ずかしいことですね。

社会人であれば、社員研修で、社内の上司などについて社外の人に伝えるときの言い方を徹底して教育されます。

「うちの○○社長は」
などと言ったら、いい恥さらしで、社の対外的評判を落とすことはまちがいありません。

それが創価学会ではなされていないようです。

つまり、それだけ社会性を無意識にでも等閑視してしまっている、ということでしょう。

まぁ、私としては、

非常識な創価学会員がいる
非常識な創価学会幹部がいる
非常識な創価学会大幹部がいる


というていどに止めておきたいです。

教団じたいは人間がつくっているのですから、その中にいるひとたちが良識と常識を持っていれば教団もよくなるはづ。

まぁ、それに逆行している感じはとても強いですが。

弟子を自称しているヒトの言動を見れば、たいていは「師」とやらについても推測することが可能ですね。
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by siawaseo_anatani | 2012-04-19 01:52 | メモ