FBI(笑)Oh My Buddaha !・直接間接を問わず、関係・関連することがらを含めメモしていく。過去の記事も加筆訂正することがある。


by FBI(笑)Oh My Buddaha !
三谷素啓の直達講で副講頭を勤めていた竹尾清澄氏の著作を紹介する。
竹尾氏は三谷亡き後、直達講を我が物にしようとした牧口・戸田に対して、潔く直達講を解散することで拒否抵抗を示した。
『唯信唯行』はタイプ印刷されたA5判の私家版小冊子で、今回使用したものは著者直筆の書き入れ本のコピーであり、一般に流布している本文とは多少異なる箇所がある。
奥付がないために発行年月日は不明であるが、「まえがき」の末尾に「昭和三十八年一月二十五日」とある。
今回は、目次とまえがきをアップするが、促音などを含め表記は原本のままである。

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     目    次

ま え が き

十二代法主の化に浴して
  日布上人・日応上人・日正上人
  日柱上人・日亨上人・日開上人
  日隆上人・日恭上人・日満上人
  日昇上人・日淳上人・日達上人
  日亨上人御遷化の前後
  日達上人御代替御法要参詣

唯 信 唯 行
  父母を識る
  本已有善・本未有善と本化
  口 業 正 意
  日寛上人の教行証判によせて在家の教学を考える
  発迹顕本──龍の口御法難に因んで

先師御指南のままに
  日寛上人の御言葉から
   法報応三身
   修   行
   観   心
   南無ということ
   本 と 迹
  日応上人の御言葉から
   本地難思の境智
   上行菩薩の内証と外用

あ と が き

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      ま え が き

                古稀に寄せて
                 子に遺し孫に伝う

 私にとつて古稀は追われるともなく、また、喘ぐともなく何時とはなしに辿りついた宿場である。七人の子の父と成つてからは還暦が私の人生のゴールであつた。還暦にはあの子がどうなつてこの子がどうして、万事は還暦までと考えていたその生活設計は戦災のため根底から覆えされてしまつた。それから十七年たった今立停まつて身辺を見廻すと、そこには伸びてゆく子供達に対する安心感の上昇線と自分の老衰の尺度の下降線との交叉点があるような気がする。薄れゆく過去の断片的な記憶の中には最早愛着もなければ慚愧も悔恨もなくまた未来に求むべき何者もない。世事万端行雲流水吾れにおいて何かあらん、煩悩即菩提生死即涅槃の悟りは道遠く遥かの彼方にあるが、一念妙法に帰すれば吾一身の五大は法界に遍満する所証の境であり、唱題にこめる一念は法界に遍満する能証の智である。そこにおのずからなる境智冥合、刹那成道の法悦が湧き出で思わざるに微吟舌端に躍る、希くはこの境涯を守り目に悪色を見、耳に悪声を聞くこと少なくして残りの幾年かを過ごし度いものである。斯くして迎える私の七十歳は安住地につながる最終コースのスタートになるのではなかろうか。
 日昇上人が常泉寺の住職であられた終戦の年、吉祥寺の仮寓に御立寄りになり依法院の戒名を過去帳に御記入下され水を差上げた処、「吉祥寺の水はうまい。もう一杯」と御所望遊ばされたことがあるが、その後間もなく第六十四世嗣法として猊座にお上りになった時その御座替りの模様を詳しく御誌しになつた御懇篤な御手紙を賜わつた。私は早速額に納めて欄間に奉掲し四六時中仰ぎ拝して無上の光栄に感激し家族一同万代に伝うべき家宝と心得ている。しかし、あの戦災のような場合を思うと何とかして出来るだけ原形に近い複写を造つてもう分家したり近く分家する子供達に与えたいものだと絶えず考えていた。それがどうやら実現しそうになつて見ると急に胸に温かいときめきが起り、ささやかな古稀の宴が今から楽しみ待たれるのである。そこで少しばかり私自身の面影も残しておきたいと思つて、最近二、三年に妙の光に投稿した記事の中から幾つかのものを集録しそれに二、三の稿を加えて見たら小冊子にまとめるのに恰適な紙数になつた。記して此処に至るとどうしたものか不意に頭の中が空虚になって一切の意欲も思索も消え去り全く捉まえ所がない状態になつてしまつた。吾れながら不思議でならない。

         昭和三十八年一月二十五日

              竹  尾  清  澄
                      七十歳
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# by siawaseo_anatani | 2008-03-11 03:50 | 資料紹介
『白秋全集』(岩波書店)に田中智学の名を見つけることができる。
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 39巻、書簡集の323頁、大正13(1924)年1月14日付、東京下谷、鴬谷、国柱会館、田中巴雷先生宛。相州小田原天神山、北原白秋、39歳。

両親とともに三保の最勝閣に招待され、
「朝夕尊顔を仰ぎ」「荘厳なる御式を拝し候上両親の歓喜を子としてのくわんぎといたし得候こと何とも忝く奉存候 なほ/\(註1)御慈愛に甘え幾日となく大勢にて御取こみ中」云云。
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 「巴雷」は田中智学の号である。
 別巻553頁に、8巻歌集3補遺として、
「最勝閣にまうでて詠める長歌ならびに反歌」が収録されている。
 8巻108頁、262頁、9巻218頁にも同題がある。
d0153496_3352196.jpg

 白秋が国柱会に入っていたとか日蓮信仰をもっていたということではあるまい。
 ただ、「両親の歓喜」とあるから、両親は信仰していたと思われる。
 両親が、その後、白秋の次弟鐡太郎によって日蓮正宗に帰依したのは昭和になってからだったと思うが、白秋が田中智学・国柱会と親しくしていたこの時期は、牧口常三郎も国柱会に出入りしていたころでもあるか。
 鐡太郎は、品川妙光寺の信徒になったはづで、有元廣賀住職時代の有力者である。
 また、鐡太郎の経営する出版社アルスは、有元を支持していた小笠原慈聞が主宰する雑誌『世界之日蓮』(後に『世界の日蓮』)に毎号広告を出していた。
 両親については『世界の日蓮』に巻頭モノクログラビアで写真が掲載されたことがある。
 この時期には、顕正会の前身である妙信講初代講頭浅井甚兵衛も妙光寺の信徒であったと思う。
 小笠原慈聞は、大石寺56世大石日應が作った「日蓮正宗日蓮大聖会」の第2代を自認し、鉄太郎も入っていた。(ちなみに、日蓮大聖会の発音は「ニチレンダイセイカイ」ではなく、同会第3代代表であった故・関戸了三によれば「ニチレンタイショウカイ」である)
 ここにも錯綜する縁の糸があった。

註1:「/\」は、原本では「大返し」記号(ひらがなの「く」を縱に伸ばしたかたちの繰り返し記号)
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# by siawaseo_anatani | 2008-02-06 03:40 | 資料紹介

堀日亨関係資料01

 紹介する文書は堀日亨が北山本門寺貫首の逝去に際して綴った追悼文である。
『日蓮宗宗学全書』や『富士宗学全集』編纂のための資料蒐集に関するエピソードも興味深い。
 堀日亨は他の富士系を含む他宗関係者とそれほど険悪な関係はではなかったようである。
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本門寺井上日光上人の御遷化を聞きて
     大石寺 老沙弥 堀 日亨

聖祖教団の合変已来未だ二周年ならざるに、新大日蓮宗の将星頻りに隕つ単に新陳代謝と看過して慶すべきにあらさるが、宗務総監塩出孝潤、久遠寺監督柴田顗秀、立正大学長守屋貫教、同前大学長清水龍山、同学部長浅井要麟、要山貫首竹部日正の各上人逹、現当巨大の化縁を棄てて鬼籍に入らる何ぞ其れ急なるや、但し、愚生には縁の厚薄あれとも共に甚しく衷心を悼むる程にはあらず、然るに最近帰寂せられたる新大本山本門寺の初菫井上日光上人に至つては、仮令教報者の飛檄無くとも自ら一筆無かるべからざるの境に在り回顧すれば明治卅五年に愚生が吾大石寺関係の古宗学古文献の蒐集に志してより次第に其範囲を拡め遂には他教団にまで及び、厚顔にも有縁無縁を簡ばず各所に採訪するに至り、明治四十四年六月一日始めて関口台の本門宗々務院を訪ひて各末寺の明細誌の閲覧を乞ふ是に依て有用時の料にせんが為なり時の後住職が即ち日光上人の井上正山師にて宗務院の総務たりしなり、此時蓮華寺の本堂墓地等は漸く沼袋に移して残れる厨裏に御取込の折に拘はらずまた石山分離独立已来の悪関係に拘らず且愚生が否交際不愛想なるを問はず、直に引見して明細誌は多分沼袋に移したれば取寄すべし当方にても所用あればと快諾せられたり、此事後年立子山の晩景に唐突に竹部上人に推参して厚遇せられし時の悦に等としく操觚者の快心印象最も深きものあり、此に依て翌四十五年三月九日に相馬文覚子と共に再び関口台を訪ひ二日を費して粗所用を果せり、爾後立正大学稲田海素、祖山学院島智良両師と共に老僧編纂の企てに依つて、大正二年九月四日に初めて沼袋の新宗務院を訪うて本門寺什宝拝見並に撮影を稲田師と共に為すべく交渉を乞ふ、時に猶上人は院の総務たりしを以て山務者に交渉の労を取り猶添書を出さる、此に依て九月十三日の霊宝虫払に事故無く前後三日に亘りて所用を弁したるに静岡に在りし富谷日震師も同事なりしなり。
是より以後日蓮各教団に統合問題起り何れの当局も繁劇にりし時、愚生は敢て時勢を白眼視たるにあらざれども斯業に専念して数々上洛し旁た山陰南海に飛び多く東都に在らず、大正四年の初め統合問題の為に本門宗々会が沼袋に開かれ各山貫首始め要人達集合の由を聞いて個別の訪問よりも一挙に大概を弁ぜんと欲して、一月廿一日御院の忙劇迷惑をも顧みず再び沼袋を訪ふ猶上人は総務たり此職長時に亘り本門法華の森智孝上人の同宗総監としてと共に万年総監と称せられし所由無きにあらず、故に此厚顔の閨入にも上人朗かに斡旋の労を取り強いて寸暇を作りて各山上人等に面謁し更に北西遠豆房要の各山に採訪するの便を与へられたる是等愚生の最も欣幸とする所なり。
是より已後北山は梁セン(注1)二老師を過ぎて上人輿望を負ふて晋山せらる、愚生も亦疾くに故山の客となり蒐集編纂に専注するを以て新古文献の入用は次第に広く且其撮影すら要するを以て、地利に伴うて更に十幾回かの御邪魔を為すに至れり、或時の如きは法会中の蒐写撮影は厳儀を濫すとの物議の為に拒絶せらるゝ事ありしも別箇の御扱にて周弁を欠かしめ給はざりし事等、此等の回数多々なれば煩しく此が細記を避く。思ふに重石二山は六百年来一日も和平の事無き間に処して門下の不平あらんを宥めて能く愚望を容れられし事全く上人の虚心擔懐の賜なりと深く徳とする所なり。
昭和十七年八月の十日に雪山荘を訪はれしは畑毛温泉に療養中急迎にて帰山する為なり霊泉の効顕著なれば又来るべしと去られし、急坂の上下に格別の御難儀も無かりし様なれば必ず御再遊あるべしと久しく心待しに、御便りは意外にも御訃報と早川師の別状なり、然れども御持病は兎も角撃退せられ御本山にて新年の諸式も目出たく了せられて後僅か数日の変調にて十九日に薪尽火滅の御圓寂との事惜しみても余りあり、然も御齢は愚生よりも七八年の弱きにあらずや極考沙弥は其時故山にありて繁忙の日課に追はれ廿三日に荘坂帰臥せり。両山の間僅に半里足らずの擔途なり、嗚呼肖膽も呉越なりとは此謂ひか悔みても追付かず、是畢竟元来筆舌共に不精緩怠の罪、半年を徒にして安否も訪はざりし事今更詮無し。
(二月七日御開山会の当日伊豆の國畑毛の雪山荘にて筆す)

(注1・セン=忄+全)
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# by siawaseo_anatani | 2008-02-04 00:54 | 資料紹介
d0153496_19132998.jpg『偽書百選』という書物が有る。
 元々は週刊文春に「偽書発掘」という題名で隔週連載されたものであり、執筆者名は「垣芝折多」カキシバオレタとある。
 100冊の本を紹介し連載終了後、平成6年3月に、101冊目の書評「偽書百選」を加筆し松山巖氏の解題を付して単行本として文藝春秋から上梓された(全333ページ)。
 その後、平成9年10月には『偽書百撰』のタイトルで文春文庫になった(全342ページ)が、このときは著者の垣芝折多の名とともに編者として松山巖氏の名も表紙・カバー・扉・奥付に明記されている。解説は池内紀氏が書いている。ちなみに101冊目の書名も「偽書百撰」となっている。d0153496_19143738.jpg
 単行本の98ページ、文庫本では100ページを開いてみる。
 そこには、
「第三十一書『錢湯の季節』泥酔光太/明治四十四年」
という書評が掲載されているはずである。
 ところが、この「第三十一書『錢湯の季節』」という書評は、週刊文春のバックナンバーを探しても見つけることはできない。
 第三十一番の「偽書発掘」が掲載されたのは平成2年5月24日号の週刊文春、156ページである。
 単行本としてまとめるにあたってなぜその書評が削除され「第三十一書『錢湯の季節』」に差し替えられたのかはわからないが、以下にその全文を紹介する。
 タイトルからもわかるとおりこれはウンベルト・エーコの『薔薇の名前』のパロディである。
 文中に人名として「日罹」という名が出てくるが、これは「日羅」のまちがいだと思われるがそのままにしておいた(誤字ではなく誤植であろう)。
 なお、原文中のルビは[ ]でくくった。

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文春図書館 隔週連載
偽書発掘  垣芝折多
第三十一書『蓮の名前』
 この本でまず注目したのは、明治の最後の年にあたる明治四十五年に出ていることだ。明治四十五年の七月に明治天皇は没しているが、本書はその二月前の五月に出版されている。著者は諾帯英光。物議社刊行。
「前書」には、「十年前、本書の原典たる日亜師による覚書を駿河にて求めたり」とある。著者によると、原典はおよそ二百年前に漢文によって書かれたものだが、読んでみると、「驚愕すべき事件」が記されていたという。この事件を発表するべきか、否か、迷ったが、ともかくも「言文一致」の文章に直すことにした。今回「勇断を揮ひて公覧」したものだとのべられている。
「第一 発端」からは、日亜という若い僧侶の回想記になっている。「アノ事件は今よりは丁度三十年前の事で厶[ござ]つた。山戸島にて起きた『提逹事件[だいだつじけん]』なる一大騒乱事件が其れで厶。アノ事件について現在語る者は在りませぬ。」と書き出されている。
「私は師日槍が島の山戸寺の日利師よりの招聘に応じて赴いた折、供を命ぜられ、偶然にも事件に遭遇したので厶。山戸島は誠に気候温暖、島民の気質は温厚にして皆熱心なる法華経の信者といふことで厶。日利師が、退屈な島で厶、と語のもあながち嘘ではないと思はれたので厶。今から思へば、此やうな温和な島で凄惨な事件が起きたのは不思議な、夢の如き感じすらいたすので厶。」
 手短に事件のあらましを再現してみよう。
 著者と彼の師が島に着いた日から、事件は起きた。山戸寺の僧侶たちが、次々に死んでゆく。自殺のようにも、他殺のようにも思えるが、日槍は事件が計画的に企てられていることを見抜く。この回想録は探偵小説のようである。いや、並みの探偵小説より面白い。事件が進むにつれて、この寺のなかに権力抗争があり、その背後には日蓮宗の教義の解釈の違いで生じた各派、各流の動きが控えていることが判ってくる。
 富士門流、日朗門流、四条門流、身延派、中山門流、本門寺派、……あるいは、その分派がそれぞれ正統であることを主張してやまない。だから、話には宗論や対論の部分が多い。さらに話が複雑になって来るのは、幕府によって徹底的に弾圧をうけた不受不施派までも登場して、事態は混沌としてくる。
 本書の欠点は、日蓮宗に詳しくない者には、教義の違いが判りにくいことと、登場人物の名に「日」の字が付いていることである。日亜、日井、日卯、日得、日尾、日香、日樹、日区、日毛、日戸、日差、日詩、……日名、日荷、日奴、日音、……日罹、日利、日琉、……日輪、もう切りがないないから止めるが、読んでいると、誰が誰やら判らなくなってくる。すぐれた探偵小説は、物語の迷宮とか、迷路の如き構成とかいって形容されるが、この本こそ、迷宮そのものなのだ。
 ここで、ひるんでは本書は読めない。先にすすもう。
 殺されるのは、日幸、日新、日奥、日成、日内、日宮、日森、日大、日松、日村、日古、そして日管の十二人の僧侶である。これは史実だろうか。いや、これは凄惨きわまりない探偵小説だ。探偵は日槍と日亜。探偵小説を明かしてはつまらない。だから、殺人のトリックは語りたいのはヤマヤマだが、止める。また真犯人が、誰なのかも語らない。ひとつヒントを与えれば、名前の頭に「日」の一字が付く者である。これではヒントにならぬといわれるかもしれない。ホントは教えたいのだが、まあ仕方ない。
 ただ、この殺された僧侶たちが、じつは法華経のなかにある「提婆達多品[だいばだったほん]」という一品[ぽん]を、最高の経典と考えている「提達派」であることが判ってくる。「提婆達多品」という教えは、釋迦の教えに背いた極悪人の提婆達多の成仏と、八歳の竜女の成仏が説かれて、悪人成仏と女人成仏とを明らかにしている。末法の世での絶対救済を約束している。この教えによって、日蓮宗は広く信者を獲得したとさえいわれている。
 ところが、「提達派」の僧侶たちは、仏の戒律や秩序を壞してこそ、末法の世においては成仏すると考える。彼らは日蓮と同様に自らを「旃陀羅[せんだら]の子」(最下層のさら下層)と称して、日蓮宗全体を覆そうと企てている。この一派と戒律を強く求めた不受不施派との対論が、本書の大きな山場になっている。なかなかの迫力。
 事態は二転三転し、富士門流とおもった者が日朗門流、四条門流であった者が不受不施派、身延派が提達派、逆に不受不施派が身延派であったりして、混乱は限りなく、最後は寺が炎上し、池の蓮の花がポッと開くところで終わる。「蓮」は日蓮を、というよりも仏そのものを表しているのだろう。
 読み終わると、本書は二百年前の回想録ではなく、まったくのフィクションであり、むしろ当時の状況を、アレゴリー(寓話)として語っていることが理解できる。事件は「今度の事」として山戸島の島民に噂されたとある。山戸とは、ヤマト、即ち日本。今度の事とは、本書が出る二年前、明治四十三年に起きた「大逆事件」を指す。殺された十二人の僧侶は、日幸の「幸」は幸徳、同じように新は新村、管は菅野と事件に連座した人物に合わせてある。
 すべてが瓦解して終わるという結末は、明治の終わりを予告していたかに思えた。明治末年にふさわしい力作だった。
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『偽書百選』
『偽書百撰』
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# by siawaseo_anatani | 2008-02-02 19:25 | 引用・抜粋メモ
d0153496_4543712.jpg植村左内の『これが創価学会だ 元学会幹部43人の告白』しなの出版(1967/10/10)286ページ、は、新宗連(新宗教団体連合会)の機関紙「新宗教新聞」の連載記事をまとめたもので、高瀬広居の『第三文明の宗教』を意識したものとなっている。
内容は学会員の日常活動を日記風にまとめたものや、現役会員と脱会者の座談会、日蓮正宗教学への批判などで、本書で初めて日蓮正宗歴代の本尊に「山の神」などが勧請されたケースのあることなどが報告されたことは記憶されていい。
d0153496_519760.jpgもっとも刊行以前の段階で情報を得た創価学会側は、竜年光(当時都議)、辻武寿(当時参議院議員、公明党委員長)らが自民党関係者に相談したり、池田大作と竹入義勝の連名で出版禁止仮処分を東京地裁に求めるなどした。(参考:『「これが創価学会だ」の刊行について』株式会社しなの出版(1967/10/13)全32ページ)
仮処分を却下された学会側は名誉棄損で民事訴訟をおこすとともに、当時新宗連理事長でもあった庭野日敬立正佼成会会長を警視庁に刑事告訴し、庭野は事情聴取された。
学会の一連の動きに対して庭野は佼成会で初版十数万部をほぼ全冊購入し、新宗連加盟各教団や伝統仏教教団に配布した。
これに困った学会側は古田重二良日大会頭に相談し、これを受けて古田が庭野との仲裁に入った。
結果、『これが創価学会だ』は十万冊以上が回収され日大グランドでに焚書されたのである。
休戦の条件は立正佼成会に対する批判の停止と学会の新宗連加入だった。
学会側で動いたのは、北條浩とA氏で、戸田の「新宗連加入」の遺志を実現しようとした動きであった。
各方面に根回しをしたのは北條で、某筋の諒解を苦労して取り付けた上で古田と接触したのである。
ところがそれに難色を示したのが新宗連系国会議員たちだった。
新宗連系国会議員らは、すぐさま庭野佼成会会長に直談判し、さらに新宗連加盟各教団や日蓮宗にも話を持ち込み、庭野に圧力をかけ、結果、学会の新宗連加入は棚上げされることとなった。
「資料価値あり」

これが創価学会だ-元学会幹部43人の告白(しなの出版)
国会図書館請求記号 169.1-U338k
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# by siawaseo_anatani | 2008-02-01 05:00 | 出版物(批判)

最初の大ベストセラー

創価学会について外部の者が書いた本で、大ベストセラーになったのが、元NHKディレクターだった高瀬広居氏(1925−)が書いた『第三文明の宗教 創価学会のめざすもの』弘文堂フロンティアブックス(1962/12/20)、定価は280円だった。
新書判で309ページあり、巻頭にはモノクロのグラビアもある。
それまで週刊誌の記事ていどでしかわからなかった学会について、初めて密着取材をしたルポルタージュである。
企画当初は、佐木秋夫、小口偉一との共著の予定だったが、途中から高瀬氏が一人で書きたいと申し出たという。
第22版は1963/01/15の発行と奥付にあり、約一ヶ月で22回の増刷というだけでも凄いが、年末から年始にかけての印刷・製本・取次など各社の休みを考えると実際の出版は前年だったと思われる。
どのくらいのベストセラーだったのか当時のデータが手元にないのでわからないが、全国の図書館には必ず複数冊が蔵されていた。
学校図書館の場合、私の通った中学と高校にはそれぞれ十数冊が書架に並んでいた。
学会による組織的なお買い上げということではなく、末端の会員が折伏用に大量に購入して友人や知人に読ませていたのである。
昭和40年代後半くらいまでは、町の古本屋の最低金額の均一本のコーナーでよく見かけたが、たいてい10円から50円で売られていた。
当時の学会を知るためにはいい。
一応「必読」もしくは「資料価値あり」。

目次
 1、現代の奇蹟
 2、若き指導者の出現
 3、眼に眼を
 4、折伏人間革命
 5、日本の潮は変わる
 巻末P.P1-4略年表
   P5現勢一覧
   P6役職系列図
   P7学会行事一覧
   P.P8-9青年部出身理事
   P10組織図
d0153496_5561060.jpg


国会図書館請求記号 169.1-Ta384d
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『第三文明の宗教』のアンチテーゼ的に書かれたのが、焚書された植村左内『これが創価学会だ 元学会幹部43人の告白』しなの出版(1967/10/10)である。
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# by siawaseo_anatani | 2008-01-31 14:07 | 出版物(中立)
篠田真由美さんの本から

「どんな宗教も、最初はラジカルじゃないですか。でも宗教思想を貫徹していくと革命になってしまうので、結局は政治と妥協する」『唯一の神の御名』祥伝社文庫、P402、篠田真由美氏の発言。

「自分たちに都合の悪いことは隠蔽して、都合のいいことを広めるのが宗教です」『唯一の神の御名』祥伝社文庫、P402、柴田よしき氏の発言。

「ただ宗教を批判するのは簡単だけど、宗教を否定してそこから抜けた人を如何に救うか」同上。
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# by siawaseo_anatani | 2008-01-31 02:06 | 引用・抜粋メモ

国立戒壇をめぐって

戦前、牧口・戸田両氏の入信段階で、正宗内で国立戒壇を否定していた僧侶は佐藤慈豊たった一人しかいなかった。
三谷素啓と藤本秀之助は佐藤慈豊の教えを受けており当然国立戒壇否定だった。
いっぽう牧口は正宗に入る前は田中智学の国柱会に入っていたのであるから当然国立戒壇論者であったと考えられるであろう。
三谷と牧口は戒壇論や僧侶論などでぶつかり袂を分かつことになる。
三谷はそのまま佐藤慈豊師につき、牧口は堀米泰栄氏につくこととなった。
三谷が亡くなった後、牧口・戸田らは直逹講の実権を握ろうとしたが、講員たちはそれに抵抗し直逹講を解散したのである。
直逹講の講員たちによって自然発生的に目白グループができた。
堀米氏は目白グループにも近かったため創価教育学会は歓喜寮を離檀し理境房へと移ったのだ。
牧口らは理境房で能勢師の紹介で堀日亨と知り合い国家諫暁国立戒壇建立へとさらに傾斜していくことになる。
目白グループにいた浅井甚兵衛は、目白グループが藤本秀之助を中心とした弾正講になる前に目白グループから離れ、妙光寺でも浮いた存在になっていく。
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# by siawaseo_anatani | 2008-01-29 19:05 | 創価教育学会
顕正会の前身である妙信講の初代講頭だった浅井甚兵衛は戦前は三谷素啓の流れを汲む目白グループにおり、品川妙光寺に所属する信徒だった。
その当時の妙光寺住職は有元日仁(廣賀)師である。
妙光寺は初代が冨士本智境住職で、冨士本師の姉弟子は妙寿日成佐野広謙尼。
その妙寿尼の弟子が堀日亨(慈琳)師である。
佐野広謙尼と冨士本師は元々完器講の在家僧、三谷素啓も元は完器講。
三谷が亡くなった後、牧口・戸田は妙寿尼の弟子堀日亨に親近していく。
つまり牧口・戸田と浅井甚兵衛は完器講つながりの従兄弟弟子といえる。
また、浅井氏らが妙光寺を出てから最終的に落ち着いた妙縁寺の住職は、偶然にも有元師と同じ日仁の号をもつ松本諦雄師だった。
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# by siawaseo_anatani | 2008-01-29 18:44 | 創価教育学会
牧口常三郎に三谷素啓を紹介したのは学習教材のセールスマンであるとか、業界紙の記者であるという説があるが、事実はどうか。
経済誌の取材で牧口の考え方や手法について取材した記者が三谷に紹介したのだ。
こう述べればわかる人にはわかるだろう。
藤本秀之助である。
この事実は、これまで活字でもネットでも指摘されていない。
藤本秀之助は取材で牧口に会う前に三谷の講に入っていた。
三谷の講といっても常在寺ではない。
東京の信徒有志を集めて三谷が作った直逹講である。
牧口が入信したのは昭和3年春、その年の秋に戸田城外も三谷に折伏され日蓮正宗に入信した。
つまり三谷を教化親とすれば、藤本は牧口・戸田の兄弟子に当たるわけである。
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# by siawaseo_anatani | 2008-01-29 14:09 | 創価教育学会