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創価学会はある種の反社会性を有していると考えています。

しかしながら、創価学会は「うさんくさい」宗教と思われながらも、今日のわが国においてその存在と影響力は一定の力を持つものとなっています。

つまり、「社会に認知」されているという既成事実もあるわけです。

もちろんその「認知」は、「理解」されているということではなく、もっぱら各種メディアを多用した「物量攻勢」による「知名度」でしかないでしょう。

創価学会は、1970年の「言論出版妨害事件」の後、対外的には「折伏(しゃくぶく)」という呼称を「仏法対話」に言い換えるようにしました。

また、大石寺正本堂建立後には機関誌『大白蓮華』のキャッチコピーに「仏法を基調とした総合的文化雑誌」というようなもの使用しはじめたりもしました。

これらはすべてイメージ戦略に過ぎず、内実をソフトであるかのようにミスリードするためのものもでしかありませんでした。

そうしたミスリードを目的とした学会用語・テクニカルターム
「文化闘争」
「文化活動」

というものがありました。

これは実際には
「選挙活動」のことであり「集票活動」のこと
でしたが、創価学会の政治進出に際して、「宗教が政治活動することは政教一致ではないか」という批判をかわすためのカムフラージュだったわけです。

外部に向けてのイメージと内部での意味付けが乖離しているダブルスタンダードは創価学会の常套的方法論であるといえるでしょう。

創価学会における社会性とは、外部の一般社会との協調や相互理解ではなく、影響力の獲得維持と拡大にこそ目的があるのです。

そしてそれが宗教の分野にとどまらず、全方位的に社会の各分野に侵食しているという現実を「創価学会の反社会性」と捉えることは妥当であると考えます。
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by siawaseo_anatani | 2012-07-26 21:27 | カルト
創価学会や日蓮正宗、その他いろいろな教団問題を長年やってきましたが、いちばんのネックは後遺症にあります。

長いあいだ非活動だったり内部アンチだった場合は、比較的かるい後遺症で済むと言えますが、活動していたものが突然辞めたり他の教団に移った場合は、活動していたときの考え方のままなのです。

ほんもの探しで教団ジプシーになるケース
宗教には懲りたといって政治やエコロジーや「愛国」に移るケース

いづれも、考え方はそのままで、たんに立ち位置が替わっただけでしかありません。

当人たちは教団を辞めたのだから、その教団の影響などない、と否定しますが、私の経験からは例外なく影響下にあると判断することになります。

攻撃的な教団にいて他に移った場合、大半のひとが元いた教団に対して攻撃的になります。

そして、自分の考え方とちがっていたり、自分の理解できないことに対して、敵だと思い込む傾向が強くあります。

つまり、元いた教団の思考パターンのままなのです。

それが正義だと思い、
それを主張し、
それを他人に強要する。

それが「信心」だとか「使命」だとか思い込んでいるひとの、なんと多いことか。

40年ちかくこうした問題にかかわってきましたが、こういうケースはこれからも続くでしょう。

けれど、いつか終止符が打たれることを願って、かかわり続けるしかありません。
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by siawaseo_anatani | 2012-07-24 00:00 | カルト
明日の聖教新聞に記事が掲載されるかどうか。

寛仁さま:お別れ「斂葬の儀」
http://mainichi.jp/select/news/20120614k0000e040167000c.html

創価学会の機関紙聖教新聞は、皇族の誕生日をふくめ皇室関連の記事はほとんど掲載しない

こんな教団の機関紙に広告を出している企業は、創価学会とおなじ「反天皇・皇室」企業といっていいのではないか。

日本の国民性・社会性を否定する創価学会と、そこに広告というかたちで多額の金銭を差し出す企業。

広告出稿企業は国家や国民のことを屁とも思っていない宗教の「共犯者」「賛同者」ということになる。
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by siawaseo_anatani | 2012-06-14 17:49
 牧口さんの思想はおそらく亡くなるまで「人生地理学」をもって原点とし基本としていたように思います。

 その思想を「どのように実社会において有効たらしめるか」というところから彼の宗教遍歴と運動の変遷があったと考えるべきでしょう。

 戸田さんは、その牧口さんのある部分を継承したとはいえるでしょう。

 牧口さんの「人生地理学」における思想的到達点とは、ある意味では「発見」であり「卓見」であり「創造」でもありました。

 それをそのまま篋底にしまい込んでいればそれは「個人」に属するものでしかありません。

 修行とか達観というのもきわめて「個人」に属するものなのです。

 また「思想そのもの」も同様です。

 それらと実社会の間にはなんら直截的つながり、脈絡といってもいいですし関連といってもいいですが、それはありません。

 その「個人」がそれらを意志的に社会に機能させようとして、はじめてなんらかの「意味」をもつということです。

 牧口さんの場合は「d0153496_16225246.jpg人生地理学」の出版を考えたことで「意味」が生じ、出版したことで「社会性」を持つこととなったわけです。

 その「個人レベル」での「意味」というものを「存在意義」ととらえるか、それとも他のなんらかのものとしてとらえるのか、それはある種の「カテゴライズ」であり「価値判断」に属することになります。

「宗教」とはまさに「カテゴライズ」であり「価値判断」による囲い込みであるわけです。

 さらにその強度を人為的に支配するのが「教団」ということになります。

 つまり
○個人における「思想」「信仰」「修行」「達観」などというものは「社会性」とは直截には関係がない。
○それらが「宗教的共同体」として成立することによって社会と関わることになるが、ここで「個」と「社会」との葛藤が生じる。
○その葛藤を宗教的共同体の中において合理化することで「教団」が発生する。

 大ざっぱにはこのような段階があると思います。
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by siawaseo_anatani | 2012-04-30 16:23 | メモ