日 布 上 人
明治四十四年幼年学校最後の夏休みを寂日坊で過ごしたので あるが他の登山客と一緒にお目通りした際、「為陰徳者 天報以福」と御染筆なされた扇子を拝領し上人は何も仰せられなかつたが御案内役の寂日坊住職法運師、すなわち後の日開上人から「見所のある少年だ」と仰せられたと伝えられその後も「竹尾清澄を呼べ」と仰せられ富士見庵に伺候してお目通り客の御相伴にあづかつたことが何回かあつた。
何時のことであつたか上人の御手料理の中に馬鈴薯の天プラがあつたので御命日には必ず御宝前に備えて御遺徳を偲び奉ることを忘れない。お扇子は惜しくも戦災で家と共に烏有に帰し、また私として上人の御目がねに御応えするような仕事は何一つできないで一生を終ろうとしている。まことに申訳ないことであるが、報を天に求めて人に求めず。及ばずながら陰徳を為すことを処世の信条とし、順風に乗つて進む時にも「日布様の御言葉にはまだまだ」と自ら誡めて努力し逆境に苦む時にも「日布様が御覧になつていらつしゃるのだ、やるぞ」と奮い起つて五十年片時もこの言葉を忘れたことはない。そして、何の望も持たないような七十歳の今日でも何かできるような一筋の張りを心の中に感ずるのは矢張りこの御言葉のためであつて恐らく来生まで私から離れることはないであろう。日蓮大聖人は化城喩品について「化城即宝処である。化城と執する執情滅するを即滅化城というなり、念々の化城、念々の宝処」と仰せられた。
日布上人の御言葉は私の人生航路上憩の化城でありまた私なりにその時その時の宝処でもあつた。
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昭和三十五年十一月十七日日淳上人第一周御忌御法要に参詣しての帰途三門から小野真道師とバスに同乗し富士宮までの車中で日布上人の御追憶談を承り、その中に上人が大変牛がお好きで或る時小野師が富士見庵に伺候すると偶々裏庭に一頭の牛が迷い込んで来た。
上人はそれを御覧になり小野師にその牛を逃がさない様に押さえておくようにとお命じになつて奥におはいりになつたまま夕方になつてもお見えにならなかつたが通りかかつた奥番の馬渡広泰師が見つけて「気の毒なことをした上人はお忘れになつたに違いない」といつて救われたというお話があつた。牛をつかまえて困つていた小野師と、何気なくお漏らしなされた御言葉を御相伝ででもあるかのように五十年間ひとりで心に念じ続けて来た私と並んでいる姿を御覧になつて日布上人も定めし御笑いになつておられることであろうとふと憶い浮べ、上人の御眼識違いとなるようなことではあるが、子に語り孫に伝えて見る気になつた。それにしても上人のおのずからなる善巧方便の有難さはまことに尊いものである。