日 開 上 人
母の病が危篤となり折から東京に御在住遊ばされた上人に病気平癒のお願いをした処、見舞に行つてやるという有難い仰せが執事を経て伝えられ、執事の御案内で大久保の家に御来駕の栄を賜わつた。それは昭和六年一月六日のことである。上人は忝くも病臥する母を枕頭にお見舞下され次いで二階でお小憩の際御揮毫を請うと「無疑曰信」と大書され下書共同じものを二枚下された。その家宝である扁額を戦災で焼かれてしまつたことは子供達の頭にも残念な想出となつている。澄雄と国安にとつて上人は忝くも名付親である。お弟子の千種法輝師が「日開上人は近頃急にお弱りになつた」と漏らされたがその後間もなく御遷化遊ばされた。御臨終の模様について妙修師から承つたが前日に何であつたか酢の物を御所望になり戦時下物資不足の折から酢がないので柚子を代用して調理し差上げた処大変お悦びになつた。そして御遷化は常侍しておられた師も間に合わないほんの一瞬であつた。蓮葉庵池畔の桜の小樹には十一月のその日時ならぬ花が咲いた。ああ尊しとも尊し。